旧水内小学校

1984年(昭和59)3月に閉校した水内小学校は、上水内郡信州新町にあった小学校だ。信州新町は2010年(平成22)に合併で長野市の一部となった。
閉校から40年経つが、旧水内小学校は現在も校舎の一部が残っている。先日訪問する機会があったので紹介する。

上の写真は現在残っている建物の一つで、もとは体育館だった。

近年の空中写真を見ていただく。
中央に赤い屋根の建物があるが、それが1枚目の写真の校舎だ。その右側にもう一棟、特別教室として使われた校舎が建っている。

こちらが二階建の特別教室。
現在残っているのはこの2棟である。

体育館と特別教室だけで学校の施設が成り立つわけではない。まず教室棟が必要だ。
学校が使われていた頃の空中写真で当時の校舎配置を見てみよう。1976年に撮影されたものだ。

現在は存在しない赤い屋根の校舎が左に2棟並んでいる。一番左側が教室や職員室があった管理棟で、2番目が普通教室棟だ。
それぞれ建築された年号を書き込んだ。教室棟は明治時代に建てられ、体育館と特別教室は昭和に建てられた。

1枚目の写真の体育館をもう一度見ていただきたい。現在は体育館に玄関が付いているが、古い空中写真の方を見ると体育館に玄関は付いていない。一番左の管理棟に玄関がついているのが分かる。
つまり、教室棟を解体した際に記念として玄関部分を体育館のところに移築したということなのだろう。いつ解体工事をしたのか記録を見つけられなかったが。

この写真は、北西側の道路から撮影した体育館だが、手前にコンクリートの平らな地面がある。ここに教室棟が建っていたのだ。

管理棟があったあたりには、二宮金次郎の像も立っている。

学校の歴史をたどると、開校は1874年(明治7)のことで、当時は水内学校という名称だった。
その後学校の編成替えがあり1886年(明治19)には新町学校水内支校、1889年には水内尋常小学校神田支校、そして1893年に神田分教場と、名称が変わった。
1903年(明治36)に分教場が独立して、水内東尋常小学校が発足した。その校舎として1906年に建てられたのが管理棟である。平屋建てで、教室が2室に職員室、そして奉安室が設置されていたようだ。

1909年(明治42)に、教室棟が増築された。空中写真では管理棟と繋がっているが、最初は少し間を空けて建てられたようだ。

体育館が建てられたのは、1927年(昭和2)のことだ。
写真は道路から見た体育館。

その後、1931年に教室棟と管理棟の間に教室を増築して(1階に1教室、2階には2教室増築した)管理棟と教室棟が接続されたようだ。

戦後、学校教育法により水内東小学校という名称になった。
特別教室棟が建てられたのは、1950年のことだ。新制中学校が発足して、当初は中学生の教室として建てられたそうだ。中学校が独立した後は特別教室として使われた。

1955年(昭和30)に、新町・日原村・信級村が合併して信州新町が発足した。学校名を信州新町立水内小学校と変更した。
その後信州新町は、牧郷村の一部(1956)、八坂村の一部(1959)も編入した。
合併時には6つの小学校と多くの分教場が存在していたので、これをどう統合していくのかは1970年代から町の課題となっており、一校に統合する案と三校にする案とが出されていた。

プールが竣工したのは1970年(昭和45)のこと。それまでは犀川で泳いでいたそうだが、当時犀川の水質が悪化していたため要望が出されたのだ。

小学校の統合に関しては、1975年(昭和50)にまず信級小学校と日原小学校が統合され犀明小学校が発足した。
津和小学校は第一分校の一部を統合した。
水内・牧郷・新町小学校の統合が検討されたが、水内地区の住民は「水内小を守る会」を結成し統合反対を訴えた。数年かけて会の名称は「守る会」から「考える会」と変わり、住民の気持ちも徐々に変わっていったようだ。
その後、牧郷小学校と新町小学校は統合して信州新町中央小学校となり(1982)、翌年町議会で水内小学校と中央小学校の統合が決定した。

1984年(昭和59)3月、水内小学校は閉校した。

閉校に際して記念誌の編纂と記念碑の建立が行われた。
特別教室棟の前にこの石碑が建っている。

大きな石碑には「水内小学校跡」の文字が、左の小さな石碑には校歌が刻まれている。

特別教室と体育館の東側の道路には、この時は雪が残っていた。
雪道を歩いて特別教室の入口のところへ行ってみると「水内公民館」の表札が掲げられていたので、現在も地域の施設として使われているようだ。
体育館の中は確認しなかったのだが、玄関に「防災機材備蓄品」という掲示があったので、防災倉庫としても使われているのだろう。

上で触れたように、本校舎の解体がいつだったのか、私は調べられていない。しかしこの玄関部分を残そうと考えたのは、地域の住民の学校に対する思いの表れだろう。

少子化などにより日本各地で学校が閉校となっているが、可能であれば建物を地域の施設として使い続けていくのがよいと思う。だが老朽化で解体せざるを得ない場合もあるだろうし、維持管理の人や資金がないことだってあるだろう。その場合でも何らかの形で記録と記憶を残すことが必要だと思う。

【参考】
 「水内小学校閉校記念誌」(信州新町立水内小学校閉校記念史編集委員会編/水内小学校閉校記念事業実行委員会発行/1984)