旧開智学校訪問記(長野県松本市)
11月の初旬のことですが、松本市の旧開智学校を訪れました。
10月12日~13日に日本を通過した台風19号ですが、旧開智学校にも影響があり、写真の塔屋の外壁の出っ張り部分の漆喰がはがれ落ちてしまったそうです。
この写真では左側の面ですね。
他には被害もなかったようで、施設は通常通り一般公開がされていました。
2019年5月の文化庁答申で、旧開智学校は国宝となりました。近代の学校建築としては初めての国宝指定だそうです。
建物は明治9年の完成で、その後90年近く使用されました。設計・施工は地元の大工棟梁立石清重が行ないました。
正面からの姿。この校舎は左右対称ではなく、向かって左の方が窓の数が1列多いのです。
見学の入口はこちらではなく、この写真の左側の道路沿いにあります。
校舎は昭和36年に重要文化財に指定され、38年から翌年にかけて移築されました。(学校があったのはもう少し南の女鳥羽川沿いでした。)昭和40年から博物館として公開されています。
敷地内に入って建物の前を通ります。正面玄関部分。外壁は漆喰塗で、腰石積と隅石積も石ではなく、鼠漆喰で疑似的に表現したものです。
校名を書いた額は天使が左右から掲げています。
実はこの天使もずっとあったのではなく、取り外されていた時代もあったのだそうです。校舎は災害や環境改善のため何度か改築を受けており、明治30年頃には天使は姿を消したとのこと。
これは中に展示してあった写真ですが、昭和38年の撮影だそうです。この年に移築工事が行なわれ、そこで明治9年の創建当時の姿に戻されました。
校名を掲げる天使の姿は、当時の「東京日日新聞」の題字をもとにしてデザインされたとのことです。国立国会図書館のデジタルコレクションに画像があったので、載せておきます。
館内には開智学校に関連したさまざまな資料が展示されていました。
校舎模型もあったのですが、新築当時の校舎はアルファベットの「L」の字を左右反転させた形でした。現在残っているのはL字の短い横棒の部分だけです。
一部屋は教室風景を再現してあり、黒板やオルガン、机と椅子が並んでいます。
一階を奥まで進むと階段があります。ここから二階へ。
ここは、明治13年に明治天皇が松本に巡幸した際に、休息をとった部屋だそうです。当時の天皇巡行は、地元から太政官に請願書を提出して要望を出していたそうです。
二階の中ほどにあった扉。
この扉は以前は近くにあった浄林寺のものを転用したものです。この他に丸太柱なども周辺の寺院から転用した部材も使われたそうです。
この木目はペンキで描かれた木目だと書いてありました。
転用した扉なので、より見栄えがするようにペンキで木目を描き足した…ってことでいいんでしょうか?(想像)
ここは講堂部分。
色ガラスのはめ込まれた窓。
なお、最初のガラスはフランスから輸入したもので、展示ケースに入れて展示されていました。新築当時は日本で板ガラスが作られておらず、すべて輸入品だったのです。
明治に建てられた学校ですが、大正・昭和と使い続けられてきたので、展示資料は大正・昭和のものも含まれています。
戦時体制下の開智学校の資料のコーナーもありました。
昭和16年には「開智国民学校」と名称が変わり、修学旅行や学校登山が「鍛練旅行」「鍛練遠足」となりました。
昭和時代の資料として、子どもが描いたポスターも展示してあったのですが、その内容は「防諜」「働ケ働ケ働ケ働ケ」「無駄にはするな貯金しませう」でした。こういうものを描かせていたんですねえ。これらの絵は昭和18年のものです。
太平洋戦争が進むにつれて授業もままなくなり、防空壕作業や勤労奉仕が頻繁に行われるようになった、と展示資料にありました。
見学を終えて外に出ます。
最後の写真は、敷地内にあった石碑ですが、「明治天皇行幸所 開智學校」と「明治天皇御駐蹕之處」とありました。「駐蹕」(ちゅうひつ)なんて読めませんでしたよ。
きちんと見なかったのですが、写真で見える範囲だと昭和十年に建てられたもののようです。校舎の移築に際してこの石碑も移設されたのでしょう。
旧開智学校の隣には松本市旧司祭館があるので、この後そちらを見に行きます。
(つづく)
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