旧大分市役所のポップアップカード
2020年の3月に写真だけ掲載していた、旧大分市役所のポップアップカードの型紙を公開することにした。ここ数ヶ月、制作が思うように進まないので、未公開型紙を公開してサイトの更新をしようと思ったのだ。
上の写真は、1937年発行の「大分市誌」に掲載されていた市庁舎の写真である。建物は1936年6月に着工し1937年3月に完成したので、本当にできたばかりだ。
私が見つけた建物の写真はわずか5~6点で、みんなほとんど同じ方向から撮影されているものなので、建物の2面しか分からないままポップアップカードを作った。
次の写真は2年前に作成したポップアップカードだ。当時はこのバランスでいいと思っていた。しかし今回型紙公開をしようとして改めて見直すと、どうも建物の幅が狭いように感じる。
今年の5月から、国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」が始まったので、自宅で閲覧できる資料が増えたのだ。そこで改めて大分市役所が掲載されていそうな資料を探した。
1988年発行の「大分市史」でカラー写真を見ることができた他、何点かの写真を見つけた。どの写真もほぼ同じ方向から撮影されてはいるが、それでも少し角度が異なるので、以前よりは建物の形を把握できた気がする。
やはり建物の幅はもっと広い方がよさそうなので、型紙を修正してからアップロードすることにした。
そしてできあがったのがこちら。
前回は型紙非公開だったが、今回は型紙を公開した。
建物の向かって左側にあるのは非常階段なのだが、1975年頃の写真で確認したものなので、竣工当時には付いていなかったかもしれない。
もし戦前の写真で建物の側面が写っているものがあるとうれしいのだけれど。
新市庁舎は、府内城の西側に建設され、南側には県教育会館、北側には道を挟んで県公会堂が建っていた。鉄筋コンクリート造5階(地上4階・地下1階)、塔屋部分は七階建だ。
1932年に当時の庁舎が火災で全焼したため、新庁舎の建設が計画されたが、財政上の理由で延期されており、1936年に予算が計上された。土地はそれ以前に購入済だった。
建物の設計は石本喜久治。彼は、堀口捨己や山田守らと分離派建築会を結成したメンバーである。
1936年6月19日に清水組の手で起工式が行われ、6月30日着工、1937年3月末に本館が完成した。
工事費総額が30万円。
内訳は、本館建築費が18万2千円。付属舎工費が1万7480円。付属設備費5万円、設計監督費1万5千円、敷地代3万4722円となっている。
昭和初期は鉄筋コンクリート建設の時代であり、大分県内では別府市公会堂(1928竣工)、浜脇高等温泉(1928)、別府警察署(1929)、大分県農工銀行(1932)、大分県教育会館(1933)、大分県殖産館(1936)などが建設された。大分市役所もそれに続いて建設されたが、その後戦争に入り、建設資材の統制が始まった。鉄筋や鉄骨を使う建築は軍関係以外禁止されたので、これ以降大分県の近代建築はしばらく作られなくなった。
話を市庁舎の方に戻す。
その後市庁舎は、増築されたり隣接している旧教育会館を買い取って利用したりしてきたが、手狭になってきたため1972年から新庁舎の建設が検討され、1975年に工事が始まった。
1977年に竣工、その後旧庁舎は解体された。
解体前の記事が「市報おおいた」1977年9月15日号に掲載されていたので、最後にそれを引用する。
「長い間ご苦労さま 消える旧庁舎」
「新庁舎のはなばしいデビューのかげに旧庁舎はさびしく消え去ろうとしています。
旧庁舎は昭和12年3月府内城の堀に面する現在の場所に工費30万円で建てられました。
当時、地上4階の白亜の庁舎は近世式建物として偉容をほこりましたが、新しい庁舎の出現により姿を消すことになりました。
完成時の朝吹亀三市長から現市長まで9人の市長の市政執行の本拠として戦時の激しい空襲、焼土と化した市街地、戦後の復興と激動の40年間を眺めてきたわけです。
そして現在のめざましい発展をなしとげた大分市をみとどけ新庁舎にバトンを渡そうとしています。」
【参考】
「大分市誌」(伊藤正男著・全国市町村史刊行会・1937年)
「市報おおいた」1977年9月15日号
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