更埴市誕生
2月23日に旧更埴庁舎の見学会が開催されるというので見に行った。
この庁舎は1966年に更埴市役所として完成した建物で、2003年に更埴市と上山田町と戸倉町が合併して千曲市となったあとは「千曲市役所更埴庁舎」として使われていた。
2019年に新庁舎を建設して移転したため,旧庁舎は現在空家となっている。
千曲市は解体を計画しており、2023年度予算にも解体費用が盛られているそうだ。
そんな中、地元の建築士会が建物を調査し、見学会と講演会を開催した。この会は申し込みが必要だったのだが,建物の見学は申し込み不要で可能という新聞記事を読んだので、私も慌てて見学しに行ったのだ。
更埴市は、1959年に屋代町・埴生町・稲荷山町・八幡村が合併して誕生した。
新市庁舎は市の発足時にはまだ建設されていなかったので、最初は旧稲荷山庁舎を市役所として使うことに決まっていた。
ところが開庁日当日(1959年6月1日)、稲荷山町の市政反対派が集まり新市長の入場を妨害する騒動となった。仕方なく開庁式は別の場所で行い、旧屋代町役場を市庁舎として使ったそうだ。最初の計画通り旧稲荷山町役場に市庁舎を移転したのは、1960年11月になってからだという。
なぜこのような騒動になったのか分からないので、建物のことを書く前にまずは更埴市誕生について調べることにした。
戦後、市町村規模を適正にして運営を合理化するために国が「町村合併促進法」を公布した1953年から話しを始めよう。
当時の市町村は図のようになっていた。
地図の中央には千曲川が流れており、川の西側は更級郡、東側は埴科郡という別々の郡だった。
埴科郡では、大正時代から合併の話題は挙がっていたのだが、どの町村で合併するのか意見がまとまらない状態だった。
戦後になって再び合併の機運が高まったが、屋代・埴生・杭瀬下の合併を願う立場と、そこに雨宮県・森・倉科を加えるべきだという考えがあり、さらに五加村を加入させたいという主張もあって1953年の時点では結論を出せなかった。
埴生町と杭瀬下村は1954年に合併し、翌年そこに五加村の一部が編入することになった。
一方、屋代町は東側の3村との合併を進めたが、途中で倉科村が不参加を決めたので、1950年3月に屋代町と雨宮県村・森村が合併して「埴科屋代町」が発足した。(その後「屋代町」に名称変更。)
更級郡の方は、稲荷山町・塩崎村・信田村・桑原村・八幡村の1町4村で協議したが、塩崎村は篠ノ井町との合併も選択肢にあり、信田村は更府村との合併を進めた。
結局、1955年3月に稲荷山町と桑原村が合併して「稲荷山桑原町」が発足することになった。(その後「稲荷山町」に名称変更。)
また、千曲川西にあった杭瀬下村の一部は1955年に稲荷山町に編入することが決まった。
1955年末の状況は地図のようになった。
屋代町と倉科村は、合併を前提とした中学校が完成したことにより、1956年9月に合併した。
この年、新市町村建設促進法が公布された。
1956年時点の状況。
1958年、地方自治法の一部改正があり、市制施行の人口要件に特例が設けられ3万人の人口があれば市が設立できることになった。
そこで屋代町・埴生町・稲荷山町・八幡村・塩崎村で協議会が持たれたが、塩崎村は篠ノ井町との合併が有力となり、9月に篠ノ井市政へ参加することが決まった。
同月、屋代町・埴生町・稲荷山町・八幡村の3町1村で合併申請が知事に出された。
ところがその後稲荷山町の中から反対の声が上がり反対運動が進められた。
合併申請は知事から国に届けられ、1959年の3月には内閣総理大臣が認めたのだが、5月の稲荷山町長選では反対派の町長が無投票で当選をし、合併反対を主張したのだ。
そんな状態の中、1959年6月に更埴市が発足した。市名は、更級郡と埴科郡の中央にあり、それまでも更埴中部という通称が使われていたので選定された。旧屋代町長が更埴市長職務執行者となり、事前に決めたように稲荷山町役場を市役所として使う予定だったのだが、反対派が占拠しており妨害されてしまった。
旧稲荷山役場を市庁舎にできたのは1960年11月のことだが、最終的に問題が解決されたのは1962年3月のことだった。
新庁舎の方は、1964年2月の市議会で、場所が地図の位置に決まった。
庁舎は同年12月に着工、1966年1月に完成した。ただ、当時は松代群発地震の規模が大きくなっていた時期なので、記念式典は11月に開催された。
建物には麦の穂の模様を入れて地域の特性を表現したのだという。1階の壁面中央にあるのは1962年に制定された更埴市章である。
最後の写真は、1969年、市政10周年に建設された石碑「市政の礎」である。
「昭和三十四年六月一日埴科郡屋代町埴生町更級郡稲荷山町八幡村の三町一ヶ村を合併して市制を施き更埴市として発足」とあるが、発足時の騒動を思えば、この碑を見て感慨にひたる市民も多かったことだろう。
次回、庁舎の中の写真などを紹介する予定である。
参考
「長野県市町村合併誌 第2 市町村編上巻」(長野県総務部地方課編/長野県/1965)
「更埴市史 第三巻 近現代編」(更埴市史編纂委員会編/更埴市/1991)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません