蛇ぬけの碑

桃介橋や福沢桃介記念館のある一帯は天白公園として整備されている。写真は、公園に建てられている案内図だ。(この写真は、文字が消えている部分を補った。)
地図の下方を横に流れているのが木曽川、斜めに合流している支流は伊勢小屋沢という名前だ。

伊勢小屋沢の岸に「蛇ぬけの碑」があると記されている。「蛇ぬけ」とは木曽地方で使われる言葉で「土石流」のことを表している。
災害に関わるものなので、どのような碑か確認しよう。

蛇抜けの碑の全体を撮影した。右上にコンクリート像、右下に説明板、それから左側にも文字を彫った石がはめ込まれている。

まずは右側の説明板を確認すると、次のように書かれていた。(漢数字を算用数字に置き換えた。)

「伊勢小屋沢『じゃぬけの碑』案内
昭和28年7月20日の伊勢小屋沢『じゃぬけ』によって犠牲となった三人の霊を慰めるとともに、この災害によって得られた幾多の教訓を後世に伝え、再びこのような惨事を受けぬことを念願し多くの人々の協力を得て、東京芸術大学助教授笹村草家人(ささむらそうかじん)先生の作になる『じゃぬけの碑』を水害十周年を記念し、現地に安置した。
なお像の礎石には『じゃぬけ』の俚言を刻み後世へのいましめとした。
昭和35年8月21日
じゃぬけの碑設立委員会」

(1) 蛇ぬけ発生

1953年(昭和28)年7月20日、3日間続いた長雨は豪雨となり、木曽川やその支流が増水した。
現在ある南木曽中学校は1969年に4校を統合して誕生した学校である。当時はその前身のひとつ読書中学校がここにあった。なお、学校近くにある南木曽橋は1962年竣功なのでこの時はまだなかった。

当日の朝、職員は悪天候のため生徒の登校を心配していたが、7:52に伊勢小屋沢に土石流が発生した。

土石流は沢の近くにある校長住宅・教員住宅を押し流し、中学校の校舎にも押し寄せた。
校長が指示を出し、沢から離れた校庭へと生徒を避難させた。そしてすぐに、二階に取り残されたり、土石流に巻き込まれた生徒を救出した。
当日の登校生徒(209名)の無事は確認されたが、電話が通じないので生徒の無事を手旗信号で伊勢小屋沢対岸に伝えたそうだ。

生徒は無事だったが、教員住宅5戸と一般住宅1戸が流失あるいは半壊し、教員住宅にいた職員の家族が巻き込まれた。職員の奥さんが死亡、校長のお子さん二人が行方不明となった。職員・消防団・村民が行方不明者の捜索を続けたが見つからず、後に死亡認定された。
ほかに重傷者が2名、軽傷者が1名いた。

学校は22日から生徒が登校し、土砂の除去作業や流出物の整理を行なった。
7月31日に荒れ果てた講堂で終業式を行ない、8月1日~3日も生徒が交代で作業を行なった。

夏休み後半も3日間生徒全員が登校して清掃作業をし、8月28日に始業式を行なうことができた。

(2) 中学生の取り組み

読書中学校の理科研究班(40名)は、「伊勢小屋沢崩壊の総合的研究」を1953年11月の長野県児童生徒科学作品展覧会に出品し優秀賞を獲得した。
研究の動機には次のように記されている。
「(…前略…)我々の研究班は、我が村の人々は治山治水に深い関心を持ちながらも科学的には無関心なことを知り、これに目覚めたいのである。
我々の目的とするところは、
(1) この災害が何故起こったか。
(2) この災害は、どの様な所に起こったか。
(3) 未然に防ぐには、どうしたら良いか。
と云う三つの問題を調べ、今後の災害救助の資料にしたいと思って研究するようになった。」

また、1954年3月に発行された読書中学校校友会誌(この号が創刊号)は、水害で亡くなった三名に捧げその霊を弔うことを目的としていた。
編集後記には次のような文がある。
「昭和28年を思う時、この惨事は忘れ得ないと共に、この惨事を思い、明日を思うのがわれわれの義務であるからである」。
1冊のページのうち3分の1以上を災害関連の記事を掲載していた。
(なお、この交友会誌は1994年に復刻され、中学校関係者に配布された。)

(3) 蛇抜けの碑の建立

1959年頃、当時の読書中学校校長が災害の記念碑を残したいと考え呼び掛けを始めた。
10月に64名が発起人となり、趣意書を発行して住民への協力を呼びかけた。
東京芸術大学助教授の笹村草家人(ささむらそうかじん)に依頼し、「悲しめる乙女の像」(当初は「悲しめる女の椅像」だった)を作ることを発表した。
像は、災害で押し流された大岩(「平岩」と呼ばれている)の上に、型枠にコンクリートを流し込む方法で制作された。

像の下の岩の表面には、蛇ぬけに関する言い伝えを記した。

「里諺
白い雨がふるとぬける
尾先 谷口 宮の前
雨に風が加わると危ない
長雨後 谷の水が急に
止まったらぬける
蛇ぬけの水は黒い
蛇ぬけの前にはきな臭いにおいがする
  美明書」
(美明とあるのは、災害当時の校長太田美明(おおたよしはる)のこと)

1960年(昭和35)8月21日、蛇ぬけの碑の除幕式が行なわれた。

(4) 歌碑の設置

乙女の像の反対側には、「夕べの歌」という歌詞を彫り込んだ石がはめ込まれている。これは1998年(平成10)に設置されたものだ。
この歌は、災害で生気を失った職員や生徒を元気づけようと、学校長と音楽教諭が作ったもので、学校で歌っていたそうだ。昭和30年代までは歌われてきたが、その後歌われなくなってしまった。しかし地元のコーラス祭で1994年に取り上げられ再び注目を集めるようになったという。

(5) 伊勢小屋沢の防災

1990年から97年まで、南木曽町は天白公園整備事業を行なった。
公園の整備に当たって、伊勢小屋沢の安全性について調査・検討をした。

最後の写真は、蛇ぬけの碑の説明板の裏側だ。「平成4年5月修理」と書かれている。

世の中には、説明板を設置したらそのまま放置されて朽ちて読めなくなってしまうものも多い。語り継ぐなら、継続的に手入れをしていかないといけないのだと感じた。

【参考】
「南木曽町誌 通史編」(南木曽町誌編さん委員会/1982)
「じゃぬけ 伊勢小屋沢その後の45年」(南木曽町建設住宅課編/南木曽町/1999)

防災

Posted by Sakyo K.