旧水戸農業高等学校旧本館(1)

今回も茨城県立歴史館の話である。歴史館の敷地にはこの建物が建っている。
前回書いた旧水海道小学校本館から100mほど離れた位置だ。

写真の左にある説明板には「茨城県立水戸農業高等学校旧本館」と書かれている。
なぜ建物がここにあるかというと、県立歴史館が建てられた場所はもともとは茨城県立水戸農業高等学校の敷地だったのだ。

この地に農業学校があったのは、1900年(明治33)から1970年(昭和45)2月までの約70年間に渡る。

水戸農業高校の歴史は、1895年(明治28)に開所した茨城県中央農事講習所から始まる。場所は水戸市三の丸で、現在の水戸警察署の近くだ。そこにあった勧業見本陳列場(1888年開設)の建物をそのまま利用した。
実習のための農地は、那珂川を渡った那珂郡柳河村(やながわそん)青柳(現:水戸市青柳町)に水田と畑合計1町歩が用意された。

しかし講習所では学習期間が短く、学校として指導する方が教育効果が高いということで、翌年3月に講習所は廃止されて茨城県簡易農学校が設立された。学校にすると国庫補助が受けられるという理由もあった。
建物他設備はすべて講習所のものを引き継いだ。

1899年(明治32)2月に「実業学校令」「農業学校規則」が公布され、簡易農学校は甲種農学校・乙種農学校のどちらかに組織変更しなければならなくなった。(甲種は高等小学校卒業者、乙種は尋常小学校卒業者が対象。)
この検討の中で、校舎を新築し規模を拡大する必要があるという意見が出て、水戸市の西にある常磐村常磐(現:水戸市緑町)に校舎を建築して移転することになった。

茨城県簡易農学校は同年5月に甲種農学校となり、茨城県農学校と改称した。そして翌1900年(明治33)6月に、新築した校舎に移転した。これが、現在残っている校舎である。

移転当時の学校の敷地は次のような様子だった。
本校(本館)と教室棟があり、教室棟の北側には講堂があった。東には養蚕室があり、西側は実習地・果樹園となっていた。北側には農具置場や畜舎、肥料置場・倉庫などが並んでいた。

1918年(大正7)には養蚕科が設立され、従来の本科は農業科と改称された。
学校の定員は450名となった。

1923年(大正12)4月、郡制が廃止され郡立だった農学校は県に移管された。新たに6校が県立農学校となったため、本校は学校名を「茨城県立水戸農学校」と変更した。翌年同窓会も名称を「水農同窓会」と変えた。以後現在まで「水農」が学校の略称となっている。
本館前には「水農の跡」という碑がある。これは1975年、開校70周年記念事業として建てられたもの。

1929年(昭和4)の陸軍特別大演習では、校舎が統監部馬匹係の事務室および馬丁の宿舎となり、運動場は馬繋場となって500頭の馬がつながれた。
11月11日から24日まで、校内掃除や行事参加、後片づけなど特別日課となった。

戦時中は生徒が勤労動員に参加するようになった。1938年〜41年頃は年に数日程度の勤労奉仕だったが、それが学徒動員となり県から要請されるようになった。
例えば、1942年には本校生徒20名が満州建設勤労奉仕隊として3ヶ月間派遣された。
1943年には北海道援農として2ヶ月、ほかにも県内の耕地整理や改修工事、農作業などに生徒が使われた。

1945年3月には決戦教育措置要項、5月には戦時教育令が公布され、学校ごとに学徒隊を結成して食料増産・軍需生産・防空防衛に当たるように義務づけられた。
水戸農業では7月1日に学徒隊が結成され、8月には米軍上陸に備えて戦闘義勇隊と変えられた。
8月2日の空襲では、水戸農業も学校敷地の西側が焼失した。建物面積では約半分が焼失してしまったという。防護団の消火作業で、本館の焼失は免れた。

戦後、1947年に教育基本法・学校教育法が施行され、新制中学校(1947)、高等学校(1948)が設置された。

水戸農業学校は、1948年に茨城県立水戸農業高等学校となった。

その後、水戸市の北側に位置する那珂町(現:那珂市)東木倉(ひがしきのくら)に校舎を新築して、1970年(昭和45)2月に移転が完了した。これで、この場所での農業学校の歴史を終えたのだった。
移転の経緯については、次回に書く。

(つづく)

【参考】
 「水農史 第1巻」(水戸農業高等学校/1970)
 「水農史 第2巻」(水戸農業高等学校/1974)