広津発電所
長野県生坂村、犀川のほとりに広瀬発電所がある。国道19号線からも発電所の建物と水圧管路が見えるので以前から気になっていた建物だ。
19号線から、昭津橋を渡って対岸に移動する。橋の上から発電所がよく見える。
この発電所は、昭和電工が1939年に建設した発電所だが、2023年1月に持ち株会社に移行して商号が株式会社レゾナック・ホールディングスになった。
そのため発電所の表札も昭和電工株式会社の表記が消え、「株式会社レゾナック・グラファイト・ジャパン 広津発電所」となっている。
私は見学申し込みをしたわけではないので中には入れない。公道から眺めるだけだ。
発電所の西側の道路から建物を見る。過去に撮影された写真を見ると窓は普通のガラス窓だったが、2016年に改装して、(おそらく)窓にパネルを嵌めそこに窓枠を描いている。以前の建物のイメージを残したのだろう。
西側の斜面には水圧鉄管が設置されている。左から1号鉄管、2号鉄管、右端は余水鉄管だ。
鉄管に貼られているプレートを見ると、現在の鉄管は1976年に製造されたもののようだ。鉄管の長さは約500m、落差は204mある。メンテナンスで最近は余水鉄管は2014年、1・2号鉄管は2019年に塗装したという表記があった。
昭津橋の近くに案内板がある。それを見ると、水圧鉄管の上にも道路があり車で行けるようだ。
すれ違い困難な道を通り、標高200mを車で登った。国道19号線がわずかに見える。
そこには、フェンスに囲まれた水槽がある。ここから水圧管を通って発電所に水が送られている。
フェンスの間から撮影した水槽の様子。見えないけど、この奥には長さ500m・落差200mの鉄管があって発電所に水を導いている。
ではこの水はどこから来ているのだろうか。
水槽の脇をフェンスに沿って少し下ってみると、水路の出口が見えた。
実はこの水は、大町市常磐にある常磐発電所から出た水を、隧道を使ってここまで引いているのだ。常磐発電所は1939年に東信電気株式会社が建設して、昭和電工大町工場に電力を供給していた発電所である。(当時は和田川発電所とも呼ばれていたのか(?)1940年時点で昭和電工の技術者は和田川発電所と言っている。当時の資料では発電所からの水路名は和田川放水路と書かれている。)
発電所の放水路の水をサイフォンを使って高瀬川と農具川の河底を横断させる。そしてそこから延長9580mの隧道を掘ったのだ。
隧道の最初の1926mは内径3.27mで、その後灌漑用の用水を分けているので細くなり、残りの7618mは内径2.88mになっている。
その隧道を通った水が、写真の水槽にやって来るわけだ。
登って来た道を戻り、途中で徒歩で脇道に入ると、水圧鉄管の中ほどのところに行ける。そこには橋が架かっていて横断もできるようになっていた。
水圧鉄管を見上げるとこんな景色。鉄管の左右は立入禁止になっている。
見下ろしても、発電所の建物は見えない。
橋の上を少し移動したら、発電所の屋根が見えたのでズームアップして撮影。
下に降りてもう一度発電所のところへ来た。午後4時過ぎだがもう山の陰になっていた。
これでこの日の発電所見学は終わりである。
最後に1枚、戦前の写真を掲載する。(国立国会図書館デジタルコレクションより)
「土木ニュース」1940年4月号の表紙に、広津発電所が掲載されているのだ。この号では広津発電所の建設についての記事も書かれているので、隧道の記述や地図作成の参考にした。
今と比べると山に木が少ないな。
犀川に架かる橋は木造の吊り橋である。この橋は、発電所建設に伴い土地を提供した地元の要望で架橋された橋だそうだ。それまでは渡し舟が使われていた。
できた当時の橋の名称は「梶本橋」だった。1957年の町村合併で、広津村の一部が生坂村と合併して地区名が昭津区となったので、橋の名称を昭津橋と改めたのだという。(梶本というのは川岸の集落の名前で、合併時に下ノ田・大久保も含めた3集落全体の範囲を昭津区としたようだ。)
現在の昭津橋は、2003年3月に竣工したものである。橋の近くに竣工記念碑が建っている。
【追記】(2023.05.06)
昭津橋の名前については、生坂村誌には別の記述もあった。それによると、1951年、橋が村に移管されたのを機に昭津橋と改名され、1957年の合併時に橋の名前から地区名をつけたというものである。橋の名につけられたのが先か、地区名としてつけられたのが先か。実はどちらも同じ生坂村誌にある内容なので困ってしまう。
個人的には、昭津という名前が、橋の費用を出した昭和電工の「昭」と、広津村の「津」の組み合わせということで、橋の命名が先だという方が自然だと思っている。
【参考】
「廣津發電所工事概要」(土木ニュース1940年4月号掲載/昭和電工株式会社発電建設部長 大野金吾著)
「生坂村誌 歴史・民俗編」(生坂村誌編纂委員会編/1997)
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