旧札幌市公会堂のポップアップカード

2021-09-09

前回に引き続き、札幌にあった建築のポップアップカードを作った。
今回のモデルは旧札幌市公会堂。現在は札幌市民ホールがある場所に、1927年に完成した建物である。今は中島公園にある豊平館が当時はこの場所にあり、その北側にこの公会堂が建設された。

過去の新聞を見ると、公会堂を求める声は1915年頃から見られ、1917年に札幌区会で建設が決定された。当時、地均しの工事にも着手していたようだ。

ところが、1918年の開道50年記念博覧会(北海道と改称して50周年になるのを記念)に建設が間に合わないということで、工事を先送りして敷地を博覧会に使用することになった(北海タイムス 1918年3月19日)。その後も公会堂建設の話しは進められていたが、予算の問題と建築場所が決まらないことで実現に至らないままであった。

そんな中、1921年に宮内省が豊平館を払い下げるという話があり、札幌区は豊平館を公会堂として活用するということで国に払い下げを願い出た。翌年の1922年(札幌市市制施行の年)に豊平館は札幌市の所有となった。豊平館の北側に公会堂を建設するという方向で計画は具体化した。
ところがその場所についても反対意見があり、なかなか決まらない。
北海タイムスは1925年1月に、10回に渡る「札幌市公会堂問題」という特集を組み、各方面からの意見を掲載している。この時点でも豊平館敷地への建設に反対する意見もあった。

それでも1925年の4月には豊平館北側での建設が確定し、7月には北海タイムスに設計案も掲載された。設計は、札幌市土木課の遠藤慶藏技師が担当した。

公会堂が完成して札幌市に受け渡されたのが1927年11月のこと。

当時の新聞記事を引用する。(漢字は常用漢字に置き換え、漢数字は適宜算用数字に置き換えた。また、句読点を補っている。)
「札幌市多年の懸案であった公会堂も高岡市長就任以来種々奔走の結果、大正十四年末愈々25万円の予算を以て豊平館裏手に隣接建設するに決し、その後市理事並びに市会議員の努力により工事費の大部分を市民の寄付に仰ぎ昨年11月より起工し、同年中は基礎工事にとどめ、本年春より再び工事に着手して本月落成し、25日午前10時より市土木委員立ち会いにてこれが検定受け渡しを了した。」

建物は豊平館に接する側は鉄筋コンクリート、他は木造の二階建て。一階は大集会場、二階に傍聴席があり1500人収容可能だという。調理室や倉庫、ボイラー室は地下に設けられていた。建物東側に和風の別棟もあったようだ。
建設費は16万7258円23銭5厘、また内部の設備費に8万円あまりが使われたという。

ただ金銭面は、なかなか寄付が集まらなかったようで、後に「さっぱり集まらぬ札幌市公会堂の寄付金」(1929年)「まだ集まらぬ7万円札幌市公会堂建設費悩む」(1930年)という記事も掲載された。

陸軍の使用と進駐軍の接収

豊平館と公会堂は1943年に陸軍北部軍が占有したため、市民の利用はできなくなった。
終戦後は進駐軍に接収されたので、市民は引き続き使用できないままである。
1946年になると、進駐軍は三越札幌支店を接収し、その代わりに三越が豊平館・公会堂で営業をすることになった。この年の北海道新聞には「公会堂を市民に使えるようにすべきだ」という市民の投書が掲載されている。

1947年に札幌市の管理に戻り、1948年から札幌市公民館の名前で再出発をした。その後1949年には「札幌市民会館」と改称されて利用されてきた。

公会堂(市民会館)の建て替え

しかし札幌の人口が増える中で、市民会館(旧公会堂)の使い勝手に不満が持たれるようになっていく。
1955年、札幌市民会館改築促進会発起人会が開かれた。2~3年前から改築の主張が出るようになっており、その運動を本格化することになったのである。当時の新聞には「現在の市民会館は28年前、人口がわずか15万のときに建設されたもので、人口はすでに40万を突破、さらに増加を続ける札幌市の文化のセンターとしては貧弱なものになっている」との主張が記されている。
翌1956年、市は改築の方針を決定し、豊平館は12月まで、市民会館は57年1月で使用を終了した。

改築に当たって、豊平館を取り壊すか保存するか議論が起こり、豊平館は中島公園に移築されることになった。市民会館(旧公会堂)については、そのような声は確認できなかった。
旧公会堂の存在したのはわずか30年間だけだった。建築時の熱心な報道を思うと、さびしいものである。

ポップアップカードの外側の色画用紙は、現在の豊平館の塗装に使われている青系を選んでみたが、実際の公会堂の色は分からない。