旧松本市立博物館の解体が始まる

松本市の大名町通りにある松本市立博物館は、2023年10月7日に新築開館した。
移転する前は、博物館は松本城公園にあった。現在も建物は残っている。
その旧博物館の解体工事が始まっている。

撮影時は休日だったので作業はしていなかったが、公園入口に解体工事中の看板が立ち、作業車が通れるように鉄板を敷いた通路が作られていた。


ではこの建物の説明を書いていこう。

それまでの松本市立博物館もここにあったが、1960年代頃には資料保管や展示上耐震耐火構造の建造物が望まれるようになり、新築することになった。
建物は鉄筋コンクリート造で地上2階地下1階で、松本城という史跡地であることを考慮して高さなどを検討し、表面は花崗岩で仕上げられた。
1966年(昭和41)の秋に着工、1967年10月に竣工し、内部の乾燥期間と陳列準備期間を置き、開館は1968年4月だった。

なお、新築にあたって財団法人日本民俗資料館が設立され、博物館の建物と所蔵資料を日本民俗資料館に寄付するという形で組織替えをした。
そのため建物の名前は「日本民俗資料館」となったが、松本市立博物館の名称も使っていた。
(日本民俗資料館は2005年に解散し、施設を松本市に寄付したので、以後は松本市立博物館と呼んだ。)

最初は堀の外側を歩いて建物を眺めてみよう。
こちらが建物の南面である。

建物の東側。

ここで橋を渡り、太鼓門をくぐって城内に入る。

建物の北側にやって来た。
本館の左にあるのは収蔵庫だ。

もう少し近づきたかったが、工事中のため仕切りがあったので中には入らなかった。

博物館の正面。
トラックが停っていたが、休日なので作業はしていなかった。

ここで松本市立博物館の歴史を見ておこう。

松本市の博物館は、1906年(明治39)に松本尋常高等小学校内に開設された「明治三十七・八年戦役紀念館」が始まりだそうだ。
(開智学校が1889年に改称して松本尋常小学校となった。)

1904年(明治37)の日露戦争では、松本小学校の生徒・職員が松本出身の出征軍人数百名に慰問状を送ったり、その家族を慰問したりした。軍人の多くが松本小学校の卒業生か、同校体育会の予習教育を受けたものだったので、返事として戦地から手紙や写真、ロシア兵の装身具などを送ってくるようになった。
学校はこれらの手紙や物品を校内の一室に展示し、一般にも公開するようにした。
終戦後、帰国した軍人が持ち帰った戦利品なども寄贈され、数千点に達したので一棟の建物を建て、記念館として開館した。これが上に書いた「明治三十七・八年戦役紀念館」である。
記念館には戦争の資料だけでなく、寄贈された博物標本2000点、書籍1600部を納めて一般公開をした。

開館後も地元から武具や、石器や土器などの考古学資料が寄贈された。さらに1908年(明治41)には東筑摩郡教育品研究所が廃止されてその物品も寄贈され、「松本紀念館」と改称された。

1928年(昭和3)、小学校改築の際に校内の表門側に移転し、1931年(昭和6)に松本市に移管された。
1935年刊の雑誌「博物館研究」によれば、武器類 2,281点、地歴品 6,464点、博物 4,517点の合計 13,262点を収蔵しており、前年度の入場者数は 23,602名だったそうだ。

この頃から記念館改築の声が上がるようになっていた。
1935年(昭和10)に松本城内二の丸にあった県立松本中学校が新校地に移転した。校舎が空いたので、1937年にその旧校舎に移転して、翌年紀念館として開館した。
館内の展示は図のような配置だった。

1945年の敗戦後、紀念館は前身が戦役紀念館ということで、戦時色を払拭するのに苦労したようだ。1947年に堀の東側の旧女子職業学校校舎に移転し、1948年に松本市立博物館と改称した。展示内容は、山岳・考古・歴史・民俗の4部門の常設展示とした。

1952年に博物館法による登録博物館となり、この年に再び二の丸の松本中学旧校舎に移転をした。
1961年にその建物を解体し、跡地に建設が始まったのが、今回の記事の旧松本市立博物館(旧日本民俗資料館)である。

旧市立博物館の解体工事期間は2025年10月31日までの予定だ。時々解体状況を見ておきたいと思う。

【参考】
「市政60年のあゆみ」(松本市/1969)
「松本市教育会百年誌」(本市教育会百年誌編集委員会 編著/松本市教育会/1984)
「松本市立博物館(日本民俗資料館)・旧開智学校総合案内」(松本市立博物館/1986)
「国学院大学博物館学紀要:Bulletin of museology, Kokugakuin University 12」(国学院大学博物館学研究室/1987)

甲信越地方

Posted by Sakyo K.