「日輪舎」訪問 (2)

2023-04-27

安曇野市にある日輪舎。2009年に国の登録有形文化財に登録されている。

写真にも写っている案内標識によると、南安曇農業高等学校創立90周年事業として改修工事を行ない、2011年(平成23)3月に完成したそうだ。

周囲を回りながら、内部を撮影した。

これは、入口の反対側から撮影。正面の奥に入口が写っている。

中央は土間になっていて、周囲に縁側のように床が張られている。当時の部材はどれだけ残っているのだろう。

少しだけ位置をずらして、床と壁面を撮影。入口は写真の右奥。

壁面の柱は新しい材にみえる。内側の縁側(?)の縁に立っている柱は建設当時のものなのだろうか。

二階に上がる階段がどこにあるかよく分からなかったけど、この写真の右側にあった。階段正面からは撮影し損ねた。昔の造りらしい、急な階段。

階段の位置まで回って撮影。階段は入口を入って左に約90°向いた位置にある。階段は一箇所のみ。

残念ながら二階の様子は分からない。

これは少し離れた場所にある、創立90周年記念のモニュメント。奥の岩も寄贈されたもの。

 

日輪兵舎の設計者について

以下は安曇野の日輪舎ではなく、その元になったという茨城の内原訓練所にあった日輪兵舎についての話になる。

設計したのは古賀弘人であるが、昭和15年に刊行された「大陸日本教育の父加藤先生と内原訓練所」(黒田正 著)に、古賀と日輪兵舎の紹介が書かれている。

それによると、古賀は1893年(明治26)生まれ、16歳で渡満し満鉄に入社した。1912年(明治45)に孫文の革命軍に入り電信隊長に。1913年(大正2)帰国し第6師団に入隊、除隊後大阪高等工業学校に入学して建築設計を学んだそうである。
その後、満州軍政部嘱託・関東軍嘱託となったが、関東軍の小野正雄少佐に建物の話しをしたところ「満州国軍兵舎として研究するのがよかろう」と言われて1935年(昭和10)に奉天省司令部内に試作したのが最初だった。

翌年、茨城県の友部国民高等学校(初代校長は加藤完治)を訪ね、ちょうど女子部の校舎が火災直後であったので、日輪兵舎を一棟建てたのだという。
(※この書籍では友部国民高等学校と表記されていたが、日本国民高等学校のことのようだ。なお、資料によっては上の二つの建築年が1年後ろにずれているものもあるらしい。)

1938年、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所が内原に設立され、加藤完治が所長となった。ここに日輪兵舎が多く建てられたが、「訓練生が自力で建てられる」ことが利点とされていた。
(以上、黒田正 著書より)

この日輪兵舎はニュース映画でも取り上げられ、小説や演劇の題材にもなった。

1939年の「文化農報」2月号では、大庭眞介が「日輪兵舎訪」という記事を書き、その建て方にも触れている。

さらに1941年には雑誌「開拓」(昭和16年4月号)に、満州開拓青少年義勇軍訓練所建設課の名前で「日輪兵舎の作り方」という記事を掲載した。
図入りで具体的な手順を説明し、部材の金額も算定してある。
柱や屋根の杉皮(…中略…)ガラス戸、レール、戸車、釘まで含めて材料費は一棟918円45銭と書かれていた。

こういった宣伝もあり、日輪兵舎は似たような形で各地に作られたようだ。
後に古賀弘人は次のように書いている。

「もともと北満の地に防寒と消極的防衛を目的に公案した。それが様々な使われ方をして自分がめんくらっている。北方から南方へ、集会場・教場・住居・倉庫・軽陣地・避難舎・畜舎・穀倉などとして発展した…」
(「東亜連盟」1943年1月号 に掲載された「防空と日輪兵舎」より)

ところが当時、設計者として別人の名前を書いている記事もあった。

建築家の岸田日出刀が1938年6月に、前川國男と入江雄太郎とともに訓練所を見学し、そのことを同年発表している。その中で岸田が書いているのは渡辺亀一郎の名である。(「堊」 岸田日出刀 著・1938年 より)
「堊」が読めなかったのだけれど、「しろつち・いろつち」と読む文字らしい。しかし岸田は「かべ」と振り仮名を振っている。

渡辺は古賀の指導の元で研究をして内原訓練所で建築主任を務めた立場である。実は渡辺は1937年に脳溢血で死去しており、岸田が訓練所を訪ねた時には既に故人であったので、直接話をしたわけではない。

先ほどの「防空と日輪兵舎」(1943)で古賀は「渡辺は全くの素人であり、日輪兵舎は自分の設計したもの」と書いている。全くの素人…とは嫌みな言い方に思うが、当時設計者として渡辺の名前が出ている記事もあることを、古賀も知っていたのではないか。

最後に。
これらの記事や図を見た限りでは、いわゆる「日輪兵舎」と安曇野の「日輪舎」では作り方が異なる部分がある。「開拓」に掲載されていた日輪兵舎の図面では、中央部分は吹き抜けになっているが、安曇野の日輪舎は二階の床をきちんと組んであった。もし内部を見られるのであれば、入ってみたいものだ。

参考
「大陸日本教育の父加藤先生と内原訓練所」黒田正 著・明治図書・昭和15年
「開拓」満州移住協会 発行・昭和16年4月号
「東亜連盟」東亜連盟同志会 発行・昭和18年1月号
「堊」岸田日出刀 著・相模書房・昭和13年

甲信越地方

Posted by Sakyo K.