「日輪舎」訪問 (1)
長野県安曇野市に、市の文化財にもなっている「日輪舎」という建物がある。外観だけだが見学をして来た。
建物は、南安曇農業高等学校の第二農場内にある。
自由に入っていいものか不安もあったが、道路に「日輪舎」の案内表示があったのでそこを曲り、少し進むとこの看板が立っていた。
日曜日だったので人の姿はない。少し進むと、左右の農場や一部の建物には「立入禁止」の表示があったが、道路はこのまま進んでも良い様子。
少し進むと、日輪舎が見えた。
日輪舎は登録有形文化財に登録されている。
文化庁の説明は次の通り。
「直径13m規模で、ほぼ円形平面とする木造総2階建。外壁を下見板張とし、軒天井を板張、入口に庇をかけ、簡素な持送りを付ける。壁面全方向に幅広の窓をとり採光を確保する。円筒形の躯体に円錐形の屋根をかける独特の外観で、全国的にも残存例が少ない。」(文化遺産オンラインより)
昭和初期の日本は満蒙開拓熱が盛んで、1937年に「満州に対する青少年移民送出に関する件」を閣議決定し、同年「満州青年移民実施要項」を作成、翌1938年1月からさっそく募集が開始された。
茨城県東茨城郡中妻村(当時)に「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」が作られ(所長:加藤完治)、16~19歳の少年たちがここで2~3ヶ月ほど学習・訓練をして、その後満州に渡っていった。一般的には「内原訓練所」と呼ばれている。
内原訓練所には円筒形の躯体に円すい形の屋根をつけた特徴的な建物があり、「日輪兵舎」と呼ばれていた。
これは、低コストで、建築の専門家ではない訓練生が自力で建てることができる、ということを念頭に設計された建物だった。(設計者については次回触れる。)
この建物は当時のニュース映画で扱われ、小説や演劇の題材にもなって話題になった。また雑誌に作り方が掲載されたこともあり、各地でこの形の建物が建てられたということだ。
安曇野市の日輪舎も、内原訓練所の建物に習って作られたものである。
次の画像は、1944年に出版された小説「饒河の少年隊」(加藤武雄著・偕成社)の挿絵である。安曇野の日輪舎ではなく日輪兵舎の挿絵だが、建築中の様子が描かれている。挿絵を描いたのは田代光とあった。
現在の南安曇農業高等学校は戦前は南安曇農学校という名称で、当時からここは学校の農場だったようだ。日輪舎は農学校の宿泊学習所として建てられ、当時の有明村の篤志家からも寄付があり、豊科町の宮大工により建造された。生徒たちも河原から石運びを行なったそうである。
この建物は「兵舎」ではないので「日輪舎」と呼ぶのだろう。1943年の起工だったそうだが、物資不足などで工事が進まなかったらしく、1945年5月に完成した。
案内板によると、建物の直径は13.3m。円形ではなく「三十六角形」と書かれている。鉄板葺(原形は板葺)の円錐形屋根、総二階建て。
入口に向かって。入口も窓も今はサッシが入っている。
中には入れないので、建物の周囲を一周した。
壁の板張りの様子。
裏側に回ったら、二階の部分の窓が一ヶ所だけない。
窓から中を覗けるので、もちろん中も撮影したが、それは次回。
(つづく)
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