アスンシオンの歴史と建築
ポップアップカード作りの下調べとして、パラグアイの首都アスンシオンの歴史と建築について書く。
16世紀初頭、南アメリカにスペイン人が入植を始めた。1534年にはスペイン人のペドロ・デ・メンドサ(Pedro de Mendoza)がスペイン国王との協約を成立させ、本格的に南米南東部の征服事業を行なった。メンドサは1536年にラプラタ川河口に砦を建設し、ブエノスアイレスと名付けた。

一方、ラプラタ川を遡ったスペイン人フアン・デ・サラサル(Juan de Salazar)は1537年にパラグアイ川の東岸に拠点を築いた。その砦はアスンシオンと名付けられた。
1541年、そこに先住民との対立でブエノスアイレスを放棄したスペイン人が移住したので、アスンシオンがこの地域の中心地となった。
スペインは1543年に植民地にペルー副王領を創設して植民地を統治した。
1580年にブエノスアイレスが再建されると、ブエノスアイレスは銀の流通で栄え、アスンシオンの都市としての影響力は低下した。
副王領はその後何度か分割され、1776年に成立したリオ・デ・ラ・プラタ副王領にアスンシオンは含まれることとなったが、中心地はブエノスアイレスだった。
1810年、ナポレオンのスペイン侵攻を聞いたブエノスアイレス市民は、スペインから独立することを決めた。独立評議会を結成し副王領各地の代表者を招集したが、パラグアイは代表派遣を拒否したのだ。
それに対してブエノスアイレスは1811年1月に武装部隊を送って武力でパラグアイを支配しようとしたが、3月に敗走した。
ブエノスアイレスだけでなくスペインの植民地体制そのものに疑問を持ったパラグアイの住民は1811年5月14日、ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(José Gaspar Rodríguez de Francia)らがアスンシオンの民家に集って独立についての会合をもった。そして翌日に彼らは独立宣言を発表したのだ。その民家は現在「独立の家」という博物館として公開されている。
独立後しばらくは政治的に混乱が続き、1813年にフランシアとフルヘンシオ・ジェグロスの二人が臨時執政官となった。1816年にはフランシアが終身独裁執政官となり、1840年に死去するまで鎖国政策や土地の公有化など、独裁的な政治を行なっていく。
フランシアの死後また政治的混乱が発生したが、カルロス・アントニオ・ロペス(Carlos Antonio López)が1844年に大統領に就任して再び安定を取り戻した。
カルロス・ロペスは鎖国政策を解き、200人以上の外国人専門家を雇用して近代化にとりかかった。
その中に、イタリア・ミラノ出身のアレッサンドロ・ラヴィッツア(Alessandro Ravizza)という人物がいた。彼は1854年にパラグアイに来て、建物の設計に携わったのだ。
彼の設計した建物として以下の例が挙げられる。

○ 聖三位一体教会。1854年着工。1856年に落成式を行なったが、工事は1864年まで続いていた。
○ カビルド(市参事会)。1857年に行われた拡張工事を担当したと思われる。
○ 旧税関。1861年竣工。現在はコロン通りのレコバと呼ばれている。
○ 旧ベナンシオ・ロペス邸。1863年竣工。現在はパレスホテルとして使われている。
○ 国立パンテオン。もとは教会として設計され1863年に着工したが、三国同盟戦争のため中断し、完成したのは1936年。)
○ 政府宮殿。1867年竣工。
ブエノスアイレスやサンティアゴ、モンテビデオなど南米の他の首都はフランスの建築の影響が大きいそうだが、ラヴィッツアの活動により、アスンシオンはイタリア建築の影響を受けた都市として発展したのだった。
まだ詳しく調べられたわけではないのだが、上に挙げた中からポップアップカードを作成する予定である。
【参考】
「パラグアイを知るための50章」(田島久歳・武田和久編/明石書店/2011)
「Arquitectura y Patrimonio en el “Circuito Ravizza” | Arquitectura ha Patrimonio “Circuito Ravizza”pe」(パラグアイ政府サイト/2011-09-23)
「Alejandro Ravizza y los inicios de la arquitectura paraguaya」(文:建築家 Luca Meza/ウェブサイト LEVEL より)
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