愛知・名古屋 戦争に関する資料館
「文化のみち」のパンフレットに掲載されている建築を、もう少し紹介します。
この建物は、愛知県庁大津橋分室です。
1930(昭和8)年の建築で、当初は愛知県信用組合連合会会館だった建物ですが、戦後は農林会館としての利用を経て、昭和32年に県に寄付されたのだそうです。
ここの一階は、2015年から「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」となったというので、中を見てみます。
こちらは建物の側面。パンフレットを見ると、設計は黒川巳喜氏・土田幸二郎氏の設計とありましたが、この黒川さんというのは黒川紀章氏のお父さんだということです。
正面から見上げてみたり。
展示室は一部屋で、当時の資料の展示と解説、映像での説明、戦争の証言ビデオの上映がされています。上映している映像の撮影はだめだけど、展示資料は写真撮影可能だというので、撮影させていただきました。
最初に目に入るのがこれ。
250キロ爆弾ですが、地中に埋まっていて1997(平成9)年に南警察署の工事現場で発見されたのだそうです。
戦前の名古屋は、金属や造船、航空機などの工場が集まる工業都市で、特に航空機生産の最大拠点だった三菱重工業名古屋発動機は、米軍の空襲の目標となりました。
名古屋の初空襲は1942(昭和17)年4月18日。このときはB25が2機だったそうですが、それから戦争終了までに、名古屋への空襲は63回行われています。
昭和20年3月になると米軍は夜間に低空から焼夷弾を投下する戦術に変えました。3月10日の東京を始め、名古屋・大阪・神戸と、大都市に対して大規模な空襲を行ないます。
(参考:総務省サイト「名古屋市における戦災の状況」)
(総務省ってば、いまだにサイトを https 化してないの?「安全ではありません」ってブラウザに表示されるよ。)
名古屋市の受けた空襲で大きなものは次のものが挙げられます。
3月12日、B29爆撃機200機による空襲。死者519人、負傷734人、家屋25,000棟以上が被災。
3月19日、B29爆撃機230機。死者826人、負傷2728人、家屋39,000棟以上が被災。このとき名古屋駅(昭和12年竣工)も炎上。
5月14日、B29爆撃機440機。死者338人、負傷783人、家屋21,000棟以上が被災。名古屋城が焼失したのはこのときの空襲。
展示は企画展示も行なわれているので、ときどき展示替えがされるのだと思います。
現在の企画展は「銃後─戦争を支えた人々─」。
一般の人々がどのように戦時動員への組織化と運動に組み込まれていったかがテーマです。
例えば、展示物として上の写真のような絵葉書がありました。(写真の左側)
この絵葉書は、1940(昭和15)年に市内の百貨店「十一屋」で開かれた郷土陸軍展覧会の記念絵葉書です。
また松坂屋では、1936(昭和11)年に「亜細亜大博覧会」が開催されていますが、新愛知新聞社主催、陸軍省・満州国・第三師団・愛知県や名古屋市が後援になっています。1942年には名古屋市と大政翼賛会名古屋市部主催の「衣料切符実施と戦時生活指導展」(指導展って名前もすごいですね)も開かれるなど、百貨店は「市民を教育する場」でもあったのです。
同じ写真の右に写っているのは、「中支那振興株式会社」の株券です。1938年に、日本占領地域での事業管理と経済復興を目的にして設立された、半官半民の会社でした。
会場を出て、建物の中も少し見てみました。
分かりにくい写真ですみません。玄関のところで、階段を見上げて撮影したものです。この日は2階には上がれなかったので下から。建物の塔の部分は階段室でした。
愛知県庁大津橋分室の隣にも、古い建物があります。入れないので外見だけ。
「伊勢久株式会社」の社屋ですが、江戸時代からつづく薬種問屋だそうです。昭和5年の建築。
ここから北、名古屋城の方に歩きます。
大津橋の信号のところから見える、愛知県庁と名古屋市役所。
今回は中に入っていません。愛知県庁は1938(昭和13)年竣工の建築です。昭和天皇御大典の記念事業の一つとして建設されました。洋風の建物に、和風の城郭風の屋根が載った帝冠様式が特徴です。重要文化財。
こちらは名古屋市役所本庁舎。こちらも重要文化財です。1908(昭和8)年の竣工で、こちらもビルの上に和風の瓦屋根が載っている建物です。こちらの建物は昭和天皇即位の記念事業として建設されました。
最後に、塔の上部をアップで。
今日はここまでです。
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