名古屋城本丸御殿
名古屋城です。
1945年の空襲で名古屋城は天主・本丸御殿など主要な建物が焼失してしまいました。市民からも名古屋城再建を願う声が高まり、1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの大天守・小天主・正門(榎多門)が再建されたのです。
本丸御殿の復元は、21世紀になってからでした。
2013年に玄関・表書院が公開され、2016年には対面所・下御膳所の公開、そして2018年の完全公開となったわけです。
つまり本丸御殿も「戦災からの復興」の延長でもあるわけなのです。現在名古屋城を建て替えるという話しになっていますが、鉄筋コンクリートの天守閣だって、戦災からの復興という歴史を担った建物ですよ。
本丸御殿のように「失われたものを再建する」のならともかく、「今ある天主を解体して建て直す」というのはちょっと賛同できません。(過去記事「名古屋城天守閣を文化財にしませんか?」)
本丸御殿のように「失われたものを再現する」というのだったら賛同できるのですけれど。
さて、今回はその本丸御殿を見に来たのです。
入場待ちの人が並んでいます。時折小雨が降るような天気でした。待ち時間は約30分。入る前に見学上の諸注意を映像で説明されます。
手を触れないこと、フラッシュ撮影禁止、飲食禁止、携帯電話通話禁止、ボールペン類の使用禁止、禁煙など。
リュック等の荷物は背中じゃなくて前に抱えて、ということも言われました。背中だと、意図せずに建物のあちこちにぶつけやすいから、らしいです。
この写真は並んでいる間に撮影した、御殿の北側です。あとで平面図と照らし合わせたら、中央が下御膳所、右端に少しだけ写ってる屋根が一段高いところが対面所みたいです。
中に入りました。順路に従って歩きます。
こういう、木の色と壁や障子の白だけというのもいいですね。
御殿の玄関に来ました。玄関は正規の来客がまず通される部屋で、「一之間」と「二之間」があります。周囲の壁やふすまには虎が画かれていました。
虎の絵の写真を2枚載せましたが、これは同じ場面を描いたものです。説明のため2種類展示してあったのですが、上の写真が「デジタル複製」、下の写真が「復元模写」です。復元模写は実際に部屋に設置されていますが、デジタル複製は廊下の所に設置されていました。
なぜ2種類展示してあるかというと、時間の経過を見せたいということのようです。
デジタル複製は「当時の絵が400年経って残っていたらこうなっています」というもの。(画像をスキャンして、金箔の上に印刷したものです。)
復元模写は「400年前の完成時の姿を再現したもの」ということになります。
ここは表書院になります。江戸時代は広間と呼ばれ、藩主と来客や家臣が謁見した場所でした。一之間から三之間、上段の間、納戸の間があります。写真は三之間。
写真の手前が一之間、一段高くなった奥の部屋が上段之間。上段之間は藩主の座として使われました。
対面所に進んできました。藩主と身内や家臣との私的な対面や、宴席に用いられた場所です。上段之間と次之間には京都と和歌山を舞台にした風俗画が描かれています。
上の写真は次之間。右手の絵は和歌山城下のにぎわい、奥は和歌裏天満宮を描いているそうです。
こちらは上段之間。上段之間は天井も「二重折上げ小組格天井」という豪華な仕上げになっています。こちらの絵は京都の風景。奥の正面の絵は賀茂競馬を描いたものです。
鷺之廊下を通って、上洛殿に進んできました。ここは1643(寛永11)年に三代将軍家光の上洛にあわせて増築された御成御殿だったということです。本丸御殿の中でももっとも格式の高い建物になります。
奥へ進んで梅之間。将軍をもてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使われました。
このあと上御膳所・下御膳所を通り、中之口部屋(御殿の実質的な玄関)に戻りました。
外に出て本丸から西北の方へ歩いて行ったのですが、そこにあったのが乃木倉庫。乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられているのですが、誰が言うともなく「乃木倉庫」と呼ばれるようになったとか。
当初は煉瓦造で陸軍の弾薬庫だったそうです。1945年の名古屋空襲の時には、本丸御殿の障壁画や天井絵などを取り外してここに保管していたため、被災せずに残りました。煉瓦の保全のため白亜塗りにしたそうです。
西北隅櫓も入ろうと思ったのですが、少人数しか入れないようで並んで待っていたら、雨がちょっと強くなりくじけて退散しました。また次の機会に。
以上で名古屋レポートを終わります。
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