旧竹ヶ鼻学校

このポップアップカードは、旧竹ヶ鼻学校のカードである。
明治時代前半に、岐阜県竹ヶ鼻村(現在の羽島市竹鼻町の周辺)に存在した校舎だ。

「写真集 明治大正昭和 羽島」に,竹ヶ鼻小学校の写真が載っているのを見つけた。塔をもつ擬洋風の校舎だ。ところがこの校舎,明治24年の濃尾地震で倒壊してしまったのだという。

地震以前の竹ヶ鼻学校の様子を,「竹ヶ鼻町誌」をもとにまとめてみた。(竹ヶ鼻村は1889年に竹ヶ鼻町となっている。)

1873年(明治6)5月の学制に基づき,好問義校と出藍義校の二校が発足した。翌年にこの二校を合併して竹ヶ鼻学校と改称した。校舎は大谷派本願寺別院食堂を使い、当時の生徒数は300名ほどだったという。
1876年(明治9)に校舎新築の提案がなされ、翌年3月起工,1880年(明治13)の5月に新校舎が落成した。

1882年(明治15年)には生徒数が630名となり、初等中等高等の三等に編成された。1884年(明治17)には隣接地を購入し運動場を拡張している。
1886年(明治19)の小学校令の改正により高等・尋常・簡易の三科に再編成された。簡易科は人数が少なく1888年(明治21)には民家を借りて分局として移転したようだ。

1890年(明治23)9月、天皇皇后御真影を拝受し翌年1月には勅語謄本が下賜された。この時期も生徒数は600名を超えており、地元の人々は学校は発展しているという実感だったようなのだが…。

1891年(明治24)10月28日午前6時半頃、岐阜県南西部を震源とした濃尾地震が発生した。

「校舎倒壊器具等破壊し,遂に悲惨なる光景実に目もあてられぬ様なり 切角多年精励の結果諸般の設備着々其の歩を進め今や多いに見るにたるものあらんとするに際し,此の空前の一大災厄の為め一朝敢なく土崩瓦解に帰せり」(竹ヶ鼻町誌)という状態だった。

濃尾地震はマグニチュード8.4で,死者7,469人、負傷者19,694人,住宅全壊85,848戸という大震災となった。※1
竹ヶ鼻町は、当時の町の人口4.950人中、268人が死亡、重軽傷者が283人だったという。建物の被害は、住宅は610戸が倒壊,638戸が火災で全焼、住宅以外の建物も全壊179棟、全焼362棟であった。※2

校舎が倒壊したものの,学校の構内には臨時施療所が設けられ、大阪から医師の応援を受けて治療が行なわれた。警察は「竹ヶ鼻学校に施療所あり」と書いた貼り紙をして告知し、治療を求める多くの人が集ったという。(岐阜日日新聞:1891年11月6日より)

次の画像は、1893年の「濃尾震誌」に載っている地震の被害である。

長良川の鉄橋は落下した。橋梁や煉瓦建造物の被害は大きかったそうだ。

岐阜市の伊奈波神社焼失。特に火災の被害が大きかったのが岐阜市,大垣町、竹ヶ鼻町,笠松町,関町などの地域だったという。

大垣町の被害。

竹ヶ鼻学校は地震の翌年の1892年に仮校舎建築を始め、その年の5月には完成して授業が行なわれるようになった。本校舎は1893年着工1894年3月に完成し,即日本校舎に移ったという。
その後も生徒数は増加して校舎も増築されていった。1935年(昭和10)には在籍児童数男子697人,女子594人となっていた。

明治13年築の竹ヶ鼻学校は残っている写真も少なく〝幻の校舎〟と言われているようなのだが、1枚の写真をもとにしてポップアップカードにしてみた。壁面は別パーツを接着して作った。玄関や窓の様子がよく分からないので想像で作ったため,実際の形とは異なっている可能性が高いけれど。

※1 数字は「濃尾地震文献目録」(名古屋市防災会議地震対策委員会編/名古屋市市民局災害対策課/1978)より
※2 数字は「明治二十四年十月二十八日大震報告」(岐阜県岐阜測候所/1894)より

【参考】
「濃尾震誌」(片山逸朗 著, 石川戈足 校/勝沼武一出版/1893)
「竹ヶ鼻町誌」(蘇南通信社 編・発行/1917)
「写真集 明治大正昭和 羽島」(鈴木正太郎編/国書刊行会/1980)