旧敦賀町役場のポップアップカード

旧敦賀町役場のポップアップカードを作った。
モデルになった建物は、1933年に地元の実業家大和田荘七(二代目)が町に寄贈して建てたものだ。

大和田荘七(1857-1947)は、海運業を営む大和田家の養子となって二代目大和田荘七を襲名し、大和田銀行を設立したり、敦賀港の国際貿易港指定や港湾整備にも尽力した人物である。
この建物ができた1933年の時点では「敦賀町」だったが、1937年に敦賀町と松原村が合併して「敦賀市」が発足したので、町役場も市役所と名称が変わった。

旧敦賀町役場については、ネット上でもいくつか写真が見られるが、「北陸の偉人大和田翁 訂正増補版」(中安信三郎著/日出新聞社・似玉堂/1934)に写真や図面が掲載されていたので、それを引用して紹介する。(この書籍は保護期間満了なので、国立国会図書館デジタルコレクションで「ログインなし」で閲覧できる。)

これが敦賀町役場の外観。

大和田荘七は工事費約18万円(戦後の書籍では25万円とも)を投じ、鉄筋コンクリート造の公会堂を兼ねた庁舎を新築して町に寄附した。当初の予定では1934年2月に完成する計画だったのだが、1933年10月に福井県で陸軍特別大演習が行なわれるにあたり、演習後に天皇が敦賀も訪問することが決まった。それに間に合うように工事を繰り上げたという。町役場は天皇の休憩・昼食所として使われた。

建物の設計は永瀬狂三が担当、清水組の施工で1933年4月10日に着工、10月24日に竣工した。

建物の図面も引用しよう。

ポップアップカードでは省略したが、右側の出入り口からは宿直室や便所へと繋がる渡り廊下があったようだ。
一階には町長室や町役場の事務室などがあり、二階には町議会の会議室が設けられていた。
三階は公会堂のホールが作られていた。

建物の面積は626.64平方メートル、延べ面積は2098.14平方メートルとある。
建物高さは正面部分で16.5m、塔屋を含めると18.3mだった。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1948年の航空写真が見られるので、当時の敦賀市役所周辺を切り抜いた。中央にあるのが市庁舎だ。
敦賀市は1945年7月12日の空襲で市街地に被害を受けているが、市役所は被害を免れた。

戦後の敦賀市庁舎だが、1974年に別の場所に新しい市庁舎が建設(11月27日竣工)されたので市役所は移転し、この建物はその後解体された。跡地には1976年に敦賀市民文化センターが建てられた。

もう一枚航空写真を掲載する。こちらの撮影は1975年の9月なので、移転が終わって空家となり、解体を待っている旧市庁舎が写っているということになる。

さて。
1974年に建てられた市庁舎だが、実はそれももう存在しない。
敦賀市は2017年に市庁舎を建て替えることを決めた。当時の市庁舎の隣に新市庁舎を建ててその後古い庁舎を解体するという方法だ。
新庁舎は2021年に竣工、2022年1月から使い始めた。旧庁舎は2022年に解体された。

もう一枚、別の役場庁舎の写真を掲載する。
これは明治時代に建てられた旧敦賀町役場である。明治7年か8年に、旧郡役所の部材を利用して建てられたものだそうだ。

町役場時代も含めてこの庁舎を初代と数えるならば、もう現在の庁舎は4代目である(市庁舎としては3代目)。2代目の役場のポップアップカードを作っていたらもう3代目も解体されてしまっていたことに呆然としてしまう。

私が当サイトを始めたのが2001年、ポップアップカードの公開を始めたのが2002年だ。当時は「明治から昭和20年までの建築」を対象としていたし、正直言って戦後の建築にはあまり関心を持っていなかった。
しかしそれから20年経ち、もう戦後の建築ですら解体されるようになってしまった。建築の専門家は有名建築家の設計した建物にしか興味がないし、多くの建物は静かに消えていってしまう。
個人的には無理して何でも建物を残すべきだとは思わないが、地域の公共建築の記録と記憶はどこかに残しておかないとマズイだろうと思っている。

そんなわけで、少し前から制作対象に戦後の建物も含めることにしている。戦後の建物もどんどん消えている状況では「関心があるのは戦前の建築だけです」などと言っていられないのだ。
これからも、気になる建物をモデルにして作品制作を続けようと思う。

【参考】
「北陸の偉人大和田翁 訂正増補版」(中安信三郎 著/日出新聞社・似玉堂 発行/1934)