田沢橋

長野道の安曇野インターから東に車を走らせると、犀川を渡る橋がある。
ここには自動車専用の橋と、歩行者用の橋の2本が掛かっている。

右が車道で、左が歩行者用だ。
車で通るたびに隣の橋が気になっていたのだが、いつも通り過ぎるばかりだった。
先日やっとこの橋を歩いて渡ったので写真で紹介する。

見て分かるように左の橋が古くて右の橋が新しいのだが、名前はどちらも田沢橋という。
古い橋はもとは自動車用だったものを歩行者用に切り替えたのだが、廃止されたわけではないので名前はそのままだと思う。

古い田沢橋が竣工したのが1955年3月、現在の自動車橋が竣工したのが1980年3月である。
撮影年度の違う2枚の空撮写真を並べて比較した。1975年の写真には橋が一本だけだ。

では、歩いて渡ってみよう。
これは橋の西側だ。中央に黄色のポールを立てて自動車は入れないようにしてある。
幅はきちんと測っていないが、3.5mくらいだろうか。自動車のすれ違いは無理そう。

鉄筋コンクリートローゼ橋で8連のアーチが並んでいるが、さらに東に鉄筋コンクリートゲルバー桁の部分がある。
橋には通信ケーブルが通っており、NTT東日本とKDDI、あずみ野テレビの占用許可証が掲示されていた。

両側のフェンスは、多分歩行者用に切り替えた時に付けたのだろうと思う。
左側の灰色の部分がケーブルを通しているケースで、右側の水色のパイプは水道だ。

この写真で分かるだろうか?
橋の幅が少し違うのだ。

上の写真のアーチの連結部まで歩いて振り返って撮影したのがこの写真。
西から数えて、5・6番目のアーチ部分が少し幅広く造られている。

これは中央部で自動車がすれ違えるように少し広くしたということなのだろうか?
現在の自動車では厳しいが、1960年代の自動車だったらすれ違えたのではないか。

アーチ部分が終り、残りは5連のゲルバー桁になった。

東側の岸に到達した。
親柱に「たざわばし」の文字、もう一方の親柱には「昭和三十年三月竣工」の文字。

川原に下りて撮影した。

東側から、新旧2本の橋を一緒に撮影。

後は再び橋を歩いて西岸に戻った。
この写真の方が、橋の中ほどで幅が広く造られていることが分かるかな。

さて、この橋が架かる前はどのような橋があったのだろう。
明治時代初期は犀川・千曲川では船橋が主流だったらしい。明治20年代になるとまずは千曲川から木橋に架け替えられていった。
安曇野地方では1901年(明治34)ころから架橋の議論が起こり、1907年(明治40)7月に田沢橋が完成した。長さは201間(365m)、幅12尺(3.6m)という記録が残っている。

その木橋は、1927年(昭和2)の大雨で流失したという。中央部の二径間が流れたそうなので、その後復旧したのだろうが、記録は見つけられなかった。

また、今日渡った橋については、着工は1951年(昭和26)だったようだ。

最後に、自動車橋の竣工について書かれた記事を引用しよう。
引用元は雑誌「道路」1980年5月号である。

「長野県において昭和47年度から建設を進めていた一般県道相矢町田沢停車場線の田沢橋が完成し,4月4日開通した。旧橋は幅員狭少のため交互交通処理を行うなど,地域住民の日常生活はもとより、円滑な交通の確保に支障をきたしており、本橋の架替は地元住民の多年の念願であった。本橋の開通により交通の安全と円滑化が図られるものと期待される。」

橋の長さは361.4m、幅員は8mと記されている。
ここに書かれているように、旧橋は幅員が狭いため交互通行が行われていたらしい。中央の幅が広い部分は、やはり車がすれ違うための場所だったのだろうと思う。

【参考】
「県政十年のあゆみ」(長野県印刷所/1957)
「信濃川百年史」(建設省北陸地方建設局 編/北陸建設弘済会/1979)
「道路 1980年5月号」(日本道路協会/1980)

土木建造物

Posted by Sakyo K.