丸山タンク
旧山一林組製糸事務所から南に300mほどのところに、丸山と呼ばれる丘がある。
そこに通称「丸山タンク」と呼ばれる施設があるので、事務所を見た後にそちらに向った。

丘には北側と西側に上り口があるが、私が先に見つけたのは西側の上り口だった。
道路からフェンス越しに丸山タンクの姿が見えた。予想していたより高い丘だ。
住宅と畑の間の細い道を上る。坂の途中で撮影した。
後で分かったが、北側の上り口の方が正式な出入り口のようだ。説明板も北側に立っていた。

直径は12mくらいだろうか。高さが2mくらいあるレンガ積みの構造物だ。

生糸の製造には良質の水が必要である。
岡谷では明治初期には横河川(諏訪湖に流れ込む川のひとつ)などの水を利用することが多かったが、明治末から大正時代は諏訪湖と天竜川の水を使う製糸場が増えた。
水を揚げるのには足踏み式の人力、または水車を利用していたが、1908年頃から電力で水を揚げることができるようになり、諏訪湖・天竜川の水の利用が大幅に増えたのだ。
製糸工場が増加すると水不足となったので、1914年(大正3)に5つの製糸業者が共同で「丸山製糸水道組合」を結成し、タンクを建造した。これは天竜川からポンプで水を汲み上げ、製糸工場へ水を供給するものだ。
丸山タンクは諏訪湖の湖面から標高が20mほど高く、一帯の工場地帯の給水を可能とした。
タンクの北側に説明板があった。
外周約38m、高さ約2m,壁の厚さは60cmだとあった。
レンガ造りの外壁の内側にコンクリート造りの環状壁が二重に作られ、三重の構造となっている。

説明板の裏面を見ると、天竜川沿いにポンプ小屋があって、電動ポンプが設置されていことが記されていた。ポンプ小屋は1972年頃までは存在していたそうだが、今はない。
配管は、主幹線と枝線の10線があり、総延長は2044mだったそうだ。
給水能力は一日に1,400立方メートルを供給できたという。
外壁に窓があるので、中をのぞいてみる。

奥にコンクリートの壁があり、内部には草が生えていた。

上からも見たいので、カメラを持った手を伸ばして撮影。

内側の二重の壁はこのような形をしている。

一番内側が直径3.1mで、その外側が直径7.3mあるそうだ。
遠くに見える高架は、中央自動車道長野線だ。
ところで、実際に水はどこに溜めていたのだろう。
近代化産業遺産群のパンフレットを見ると、この構造物は金属タンクの台座だったことが書かれている。
残っているのはタンクではなく「台座」なのだ。しかしそれ以上の説明がない。
丸山タンクのすぐ北側にお茶屋さんがあって、お店のブログで丸山タンクを紹介している。
そこにタンクが存在していた当時の写真が掲載されているので、ご覧戴きたい。(末尾にリンクあり)
タンクの構造については、私には良く分からない。
あの内側の二重の壁は、水の中の微細な土砂を沈殿させるためのものなのだろうか。
それとも、二重壁は金属タンクを支えるためだけのものなのだろうか。レンガ壁に窓が開いているということは、レンガ部分には水を溜めていなかったということではないかと思うのだが。
本来は岡谷市が作成した現地の説明板に、上部に金属タンクが載っていたことを載せるべきだと思う。
産業遺産に認定されているんだから、タンクの構造や水の流れ方についても分かるようにした方がよいだろう。
あと、いつまで使われたのかということも。
タンクが撤去された時期だが、航空写真からある程度は絞り込める。

1962年の航空写真を見ると、平板な板のように見える。おそらく金属タンクの上面だ。
1969年の写真では、特徴的な三重の円が見える。これは現在の航空写真と同じだ。
つまりタンクの撤去は1960年代ということになる。
【参考】
「経済産業省認定 岡谷の近代化産業遺産群」(岡谷市公式サイト/2020-03-27更新)
(※ パンフレットのリンクあり。)
「諏訪湖の水が生糸になる 丸山タンク」(お茶の専門店 茶小泉ブログ/2019-09-22)
「岡谷市史 中巻」(岡谷市編/岡谷市/1976)
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