蘭川発電所
南木曽町の読書発電所の対岸に、もう一つ発電所がある。
国道19号線から見えるその発電所は、蘭川発電所という名前だ。
手前を流れているのは木曽川の支流の蘭川で、ここはもう木曽川との合流点に近い所だ。
発電所は1925年に木曽電気株式会社が建設したもので、現在は関西電力が管理している。
蘭川の水利権を最初に得たのは、1906年(明治39)に出願した中央電力だった。
ところがこれがうさんくさい企業であったようで、中央電力の発起人3名は誰も電気事業の経験がなく、事務所さえもまだないような状態だった。それなのに村は契約をしてしまったのだが、結局中央電力は発電所を建設もせず、1908年に水利権を失った。
その後1910年(明治43)に木曽電気株式会社が水利権の申請をし、翌年許可を受けた。
木曽電気は恵北電気(岐阜県)と協力をし、まず恵北電気が計画した川上発電所の建設を優先することにした。そして1912年(大正元)には両社が合併した。合併後の名称は木曽電気。本社は岐阜県恵那郡坂下町(現中津川市)に置いた。
1913年に竣工した川上発電所の電気を、吾妻村や読書村に供給したのは1916年(大正5)のことだ。
ところが川上発電所の電力に余裕があったので、木曽電気は蘭川の水利権を返上すると言い出した。結局蘭川に発電所は造られなかった。
三度目は、1917年(大正6)に名古屋電燈が出願した。名古屋電燈といえば、翌年木曽電気製鉄となり1921年には大同電力となる、福沢桃介が率いる企業である。
しかし吾妻村は厳しい条件を付けて名古屋電燈に水利権を与えないよう県に要請をした。村との関係が深い木曽電気を優先したいという希望があったようだ。
その木曽電気が再び、1918年(大正7)に蘭川に発電所を建設する申請を県に提出した。蘭川に関しては名古屋電燈のほかもう一社申請があったようだが、吾妻村は木曽電気とだけ交渉を行ない、1919年に条件面で合意した。
ところが県の許可がなかなか下りず、認められたのは1922年(大正11)のことだった。
翌年着工をして1925年(大正14)1月に蘭川発電所が完成した。
吾妻橋の上から見た発電所。
敷地には入れないが、近くまで行くことはできる。
ただ、ここまでの道が公道なのか私道なのかよく分からない。もとは国道だったのだが、国道が改良されて蘭川の北側を通るようになり、旧道は行き止まりになっている。
発電所は当然閉鎖されていて入れない。
フェンス越しに建物を撮影した。
水圧鉄管は1本で、全長は101m。1965年に修繕で一部を取り換えたという銘板が付けられていた。
この発電所は蘭川の上流、妻籠宿のところで取水をしている。
木曽電気も戦時中の電力統制で1941年に日本発送電に資産を出して解散をした。
戦後は関西電力が管理している。
蘭川発電所は、戦後にも水利権で問題になったことがある。
1960年に蘭川発電所の水利権が切れるに当たり、前年の内に関西電力は更新願を出したのだが、そのときに地元が反対をしたのだ。
これは妻籠宿のところにある取水口だ。
取水口付近は、取水のための堰堤でこのように河床が隆起している。
(遠くに見えるのは妻籠発電所。)
関西電力から申請を受けた県が吾妻村に聞き取りをしたところ、それに対して村は〝出水時には水面が高くなるので取水堰堤を撤去して欲しい〟と要望したのだ。
県は取水停止命令を出し、関西電力側は訴訟の準備をした。
結局その後の交渉で、防災工事を行ない公共補償費を支払うことで水利権の延長を認めたのだという。
なお、当時は発電の水利権については県が許可を出していたが、現在は国土交通省の管轄だそうだ。
発電所は現在も稼働中である。
【参考】
「南木曽町誌 通史編」(南木曽町誌編さん委員会/1982)
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