姫川第二発電所
親沢橋から姫川橋に向うために国道148号線を北に走り、下里瀬トンネルの手前の信号で県道330号線に入った。
この道路は旧国道148号線で、ここを進めば姫川橋に到着する。
…というつもりだったが、工事中で通行止めになっていたことは親沢橋の記事で書いた。
上の写真を撮影したあと、来た道を戻る。写真に写っているのが姫川橋だ。
再び南へ移動する。これは県道沿いにあるJR中土駅。消防の器具置き場も併設されている。
中土駅のすぐ近くに中部電力の姫川第二発電所があるので、外観だけだが見学させてもらう。
主屋は道路ギリギリに建っている。
1935年に安曇電気株式会社が建てた発電所だという。
安曇電気株式会社というのは1903年(明治36)に設立された電力会社で、本社は北安曇郡大町(現:大町市)にあった。1904年に中房川に宮城第一発電所を完成させ送電を開始した。
その後も発電所を建設し、1926年には小谷電灯株式会社を、1927年には姫川電気企業株式会社を併合して規模を拡大していった。
そして1935年にこの姫川第二発電所を建設した。
しかし同社は1937年に諏訪電気株式会社に合併され、信州電気株式会社という名前になった。
1939年に電力は国家管理となり、日本発送電株式会社が発足した。配電部門は9分割されて中部地区に中部配電株式会社が創立された。
第二次大戦後の1948年、「過度経済力集中排除法」(1947施行)を電力業界にも適用することが決まり、電力業界の再編が始まった。
1950年の「電気事業再編成令」「公益事業令」にもとづき、日本発送電と各配電会社は解散し、新たに発・送・配電一貫経営、独立採算制の電力会社が9地区に設立された。
中部電力が1951年5月に設立され、以後、姫川第二発電所は中部電力が管理している。
少し移動して南東側から撮影。
左端にわずかに水圧鉄管が見えている。
もう少し離れるとこんな感じ。
こちらからでは建物の後ろ側が分からないので、戻って横に回ろう。
横の道を西に進むと上り坂になるので、建物を見下ろすことができる。
水圧鉄管が見えたが、何か工事をしているらしくカバーが掛けられていた。
この水は、約10km南にある姫川第二ダムから取水しているらしい。
この日はダムは確認しなかった。
姫川対岸の岩山が見える。
現在の国道148号線はあの山の中をトンネルで抜けている。
発電所の横を登る道の途中に、復興記念碑が建てられていた。
「平成七年七月起災 災害復興祈念の碑」とある。
1995年の7.11災害の復興碑だろう。
少し石垣を登る必要があり、草も生えていたので、碑の裏側を見るのをサボってしまった。
隣にある茶色い石はもっと古いもののようだ。写真を見直したら昭和10年の日付が彫ってあった。
最後に、戦後の電力業界再編期に「姫川第二発電所は我々のものだ」という主張をした文章を見つけたので記しておこう。
1949年9月に、昭和電工株式会社が、「十発電所の当社への帰属に関する請願」というものを出していた。
その中で、姫川第二発電所は当社の事業のために自ら手を下して開設したものであると主張している。
10の発電所それぞれに理由が書いてあるので、姫川第二発電所のところを引用する。(「軽金属時代 」1949年12月号より)
「姫川第二発電所
当社が大町に国産アルミニウムを創始して間もなく将来の発展を見越しその電力自給の建前から安曇電気株式会社の有する水利権を当社自らの手に依って開発したるもの即ちこの姫川第二発電所であります。即ち当社は自らの資金と技術を以てこの姫川第二発電所及び同発電所と大町工場間の送電線を完成しこの電力を大町工場に専用したのであり、この関係は自家発電所と何等異なるところがなかったのであります。」
発電所は現在中部電力の所有となっているので、この請願は受け入れられなかったのだろうが、これと同時にアルミニウム製造をしている日新化学工業も、自社の電力が必要であるという要望を出している。
昭和電工の請願に書いてある姫川第二発電所の設立が実際にどうだったのかは分からないが、電力が必要不可欠な製造業にとって死活問題であったし、戦前に自分たちが作った発電所を、戦時統合で日本発送電に強奪されたという恨みもあったのだろう。
【参考】
「軽金属時代 12月号」(金物時代社/1949)
「中部電力10年史」(中部電力10年史編纂委員会編/中部電力/1961)
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