蒲原沢土石流災害
国道148号線の新潟県と長野県の県境に橋がある。
姫川の支流の蒲原沢に架かる橋で、名前を国界橋という。1998年に完成した橋だ。
実はこの橋は三代目で、二代目の橋は1994年12月に完成したばかりだった。
わずか数年で新しい橋に代わったのは、二代目の国界橋が災害で流されてしまったからだ。
前回の記事でも書いたが、1995年の7.11水害で姫川流域は大きな被害を受けた。二代目国界橋もその時に土石流で流されてしまったのだ。上で「わずか数年」と書いたが、実際に橋が使われたのはわずか8カ月だったのだ。
蒲原沢の上流には、初代の国界橋が残っている。
こちらは二代目国界橋ができる前の旧国道で、現在は通行止めになっている。
1995年の災害後、三代目国界橋ができるまでは迂回路として使われたらしい。
国界橋の手前の道路の左側に広場がある。
「姫川渓谷ジオサイト」の説明板が立てられていた。前回の大網発電所の記事で使った写真はこの説明板の一部を写したものだ。
ここから姫川の方を眺めると、川沿いの斜面に崩落防止工事をしてあるのが見える。
この山は、およそ1000年前と500年前に姫川の対岸の真那板山が崩落して土砂が堆積したのだという。
約500年前の災害では、崩落で姫川がせき止められ、天然ダムが形成された。推定では上流4~5kmくらいまで水が溜まり、それが数十年続いたらしい。
ともかくこの地域は不安定な大地である。
広場で説明板よりも目立つのが、この慰霊碑だ。
碑の裏側に説明が記されているので、それを引用する。
「碑文
平成7年7月11日、未明から降り始めた梅雨前線豪雨により、緑豊かで平和な山村の様相が一夜にして一変した。姫川流域全域にわたり、山肌が崩れ、土石流が発生し、道路が寸断され、多くの集落が孤立した。ここ蒲原沢においても大規模な土石流が発生し、大量の土砂が姫川に流出するとともに前年の11月に完成した新国界橋も流失した。
この災害から地域を復興し、地域の安全を守るために、蒲原沢において砂防ダム、治山ダムの建設工事と新国界橋の復旧工事を行なっていた平成8年12月6日、再び大規模な土石流が発生した。突然襲ったこの土石流に巻き込まれ、14名の尊い人名が失われた。遠く北海道、青森県、岩手県、秋田県、神奈川県、そして糸魚川市、松本市からこの地に働きに来られていた方々が、工事に携われていた中での惨事であった。
また、この土石流災害は、融雪を考慮した土石流発生の予知・予測手法の開発等が必要であることを、新たに我々に提起した災害でもあった。
ここに国土保全のため、当地域の発展のため、働かれていた14柱の御霊に哀悼の誠を捧げるとともに、とこしえに安らかなることを祈念し、併せて今次の災害の教訓を風化させることなくこの史実を末ながく後世に伝えるため、さらに当地域の発展を念願し、この慰霊碑を建立する。
平成9年11月
亀井静香(災害時の建設大臣)」
また、国界橋の横にはどのような災害だったか説明するプレートが設置されている。
このプレートや、地盤工学会調査報告、北陸地方整備局や長野県の資料などをもとにして経緯をまとめてみようと思う。
(1)前提
蒲原沢土石流で災害に巻き込まれたのは、工事に従事していた人たちである。
工事内容は、蒲原沢の谷止工事、砂防ダム工事や、沢の流路の工事、国界橋(7.11災害で土石流に流された)の復旧工事などである。
(2)発生
蒲原沢上流部の谷(標高約1300m、姫川との合流点から2.7km上流の地点)で土砂崩落が発生。1996年12月6日午前10:30頃、土石流となって姫川まで流れる。土石流は計5波発生した。
(3)人的被害
当日工事に従事していたのは68名。そのうち14名が死亡し、9人が負傷した。
(直後の捜索では1人行方不明だったので13名死亡と報告されていた。また、資料によっては負傷者8名としているものもある。)
(4)捜索活動
第1次捜索
災害発生日の6日午後から12月20日まで15日間。13名の遺体を発見。
第2次捜索
1997年5月7日~5月11日。
骨片を発見したが身元を特定できるものはなかった。(長野県資料の表記)
別の資料に5月16日に遺体確認とあったので、12日以降に発見されたのではないかと思われる。
(5)調査
建設省や林野庁、長野県が砂防学会に調査を要請した。
1997年7月に調査報告書が提出された。
砂防学会の調査では次のことが指摘された。
・これまでに12月に土石流が発生した事例がなく、予兆現象は認められなかった。
・過去の災害と比較して発生の可能性は低かった。
・現在の土石流の発生予測は誘因を豪雨とするもので、融雪に関するものではない。
…などを理由として発生を予測することは非常に困難だったと結論づけている。
(6)工事再開
1997年8月に大規模な避難訓練を実施し、その後工事が再開された。リモコン操作の重機を使い、沢に作業員が入らないように実施した。また警戒・避難体制も変更をし監視小屋を設けて監視員を常駐させた。
(7)慰霊碑
1997年11月、国界橋近くに慰霊碑が建立された。また小谷村の常法寺に地蔵尊・観音像が建立された。
慰霊碑は現在も糸魚川市が管理を行ない、毎年12月6日に関係者が献花して追悼している。
(8)賠償訴訟
1999年11月、犠牲となった作業員3人の遺族が賠償を求めて訴訟を起こした。原告側は、安全対策の不備(土石流センサーの設置・監視人・サイレン・避難設備がなかったこと)を問題にしていたが、「発生の可能性はあったが、具体的な予見可能性はなかった」として訴えは退けられた。(2009年2月判決確定)
【参考】
「1996年12月6日蒲原沢土石流調査報告」(地盤工学会蒲原沢土石流調査団/1997)
「土砂災害の実態 平成8年」(砂防・地すべり技術センター/1997)
「Year’s 防災 3月号」(全国防災協会/1998)
「蒲原沢の土石流」(北陸地方整備局サイトより:pdf)
「蒲原沢から」(長野県サイトより:pdf)
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