座光寺の復興記念碑
旧座光寺麻績学校の大石垣の下側の土地は、1984年までは座光寺小学校の敷地だったが、今は座光寺公民館と自治振興センターの敷地となっている。
ここに、災害復興記念碑を見つけた。

裏面を見ると、1961年(昭和36)の災害からの復興記念碑だった。
1961年、台風の接近と梅雨前線の停滞による豪雨のため、伊那谷各地で河川の氾濫、土石流、地滑りなどが発生して大きな被害をもたらした。昭和36年に発生したため「三六災害」と呼ばれる。
土砂崩落などは伊那谷全体で1万カ所を超え、死者・行方不明者は136人、浸水戸数は18,488戸に及んだという。(数字は「広報いいだ」2011年6月1日号より)

以下に、裏面の文字を書き写す。
(漢数字は算用数字に適宜置き換え、句読点を補った。)

「昭和36年(1961)6月25日より降り出した梅雨前線による雨は27日の昼頃より猛烈なる豪雨となり河川は氾濫し山崩は続発、道路は寸断、堤防は決壊、忽ちにして修羅の巷と化し、家屋の全壊流失12戸、半壊浸水42戸、田畑の流失埋没100丁歩、冠水土砂流入100丁歩に達し電燈は消え通信交通は途絶、数日間全く孤立の状態となり小中高の臨時休校も7日に及んだ。
この間の雨量は565ミリと記録され披害総額10余億円と推定された。地区住民は恐怖と絶望の中より災害の克服に立ち上がり、国も直に災害救助法を発動、自衛隊も出動、全地域一体となって復旧に努力した。上河原下羽場を始めとする農地復旧は原大堤横の地籍より9万立米の赤土をとって行い、大小河川・道路橋梁・砂防堰堤等も完成、壊滅した林道も立派に復旧した。かくて4ヶ年10億円の費用を投じ不屈の努力を傾注した結果郷土にその面目を一新見事復興は完成したのである。尚この大災害に一人の犠牲者も出さなかった事は、不幸中の幸であった。こゝに大災害の復興を記念し今後かゝる大災害の再び起らぬことを冀いこの碑を建てるものである。
昭和40年11月 座光寺地区災害復興委員会」
地名が出てきたので補足しておこう。
上河原と下羽場は天竜川沿いの地域である。現在の農業集落名では「上河原」が見当たらないので地図では「河原」の範囲を示しておいた。(実際には中河原にも土砂は運んでいるので、天竜川沿いの地域は全て復旧対象だったのだろう。)
「原大堤横の~」とあるのは、「原という地域にある大堤」のことで、江戸時代からある2つの溜池のことを大堤と呼んだ。この大堤の南側の原野から土を採取して農地の復旧に使ったのだ。その跡地を飯田市が買い上げ、一部は工場用地として売り、他は住宅地として分譲した。これが現在の大堤地区である。三六災害直後はここは原野で、地区名としての「大堤」は1968年に誕生したのだ。

(補足終わり)
三六災害に関しては、以前もこのブログで高森町や豊丘村の復興記念碑のことを書いた。伊那谷の各地にこのような災害復興碑が見られるので、また機会を見て少しずつ確認していきたい。
しかし中には、集落として集団移住せざるを得なくなったところもあった。そういう集落では「復興碑」は建てられない。
三六災害後に、国及び県で被災農地を買い上げて全戸移住した集落は15集落(248戸)あったという。その中で一番大きな集落は中川村四徳の84戸であった。集落跡には災害移住記念碑が建てられているそうだ。
これらについても今後調べていこうと思う。
【関連記事】
「高森町の復興記念碑」(2022-10-22)
「高森町の復興記念碑(2)」(2023-06-17)
「高森町の復興記念碑(3)」(2023-10-30)
「豊丘村の復興記念碑」(2023-11-01)
【参考】
「広報いいだ」(2011年6月1日号)
「麻績の里座光寺便」(2019年8月号)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません