高森町の復興記念碑(2)

昨年、高森町の復興記念碑という記事を書いた。
高森町歴史民俗資料館の敷地に建っている石碑の話だ。

この写真は、昨年撮影したもの。
「三六災害」と呼ばれる、1961年6月の集中豪雨により伊那谷で川の氾濫や土石流、地滑りが発生した災害(昭和36年に発生したので「三六災害」)。その復興記念として、1964年に建てられた石碑だ。

前記事でリンクしたが、その時に国土地理院の「自然災害伝承碑」を見て、他にも三六災害の復興記念碑や慰霊碑が高森町内に建てられていることを知った。
今回、そのうちの一つを見る機会があったので紹介する。

場所は、下市田地区の萩山神社の近くだ。
前回の石碑との位置関係は地図のようになっている。以前訪問した旧下市田学校もすぐ近くにある。

萩山神社は、12世紀末の創建で、現在の建物は1633年(承応2年)に建てられたものだが、
三六災害の時に裏山が崩れて本殿が倒壊してしまった。翌年復元解体修理を行なったそうだ。

私の目的の石碑は、この石段を上らず右へ歩いたところにある。

復興記念碑があった。

石碑の側面。側面にある小さな黒い表示は石材店の名前だった。

裏側に碑の説明があるので見てみよう。

昭和三十六年六月伊那谷を襲った梅雨前線豪雨は、各河川が大氾濫濁流と山津波の怒涛は人力の限りを尽した防護作業も遂に空しく一瞬にして尊い人命を家財や住居耕地を奪い去り阿鼻叫喚其の惨状は遂に其の極に至った、我が市田郷は萩山神社の本殿の倒壊山腹崩落をはじめ、多数の家屋の流失全半壊埋没等、更に天龍川惣兵衛堤防の決潰耕地中小河川道路工場公共施設等筆舌に尽し難い激甚大災害を受け全く暗黒の坩堝と化したのである、之が救援と復興に就いては国は災害救助法の発動をはじめ各種の特別法が成立、区民の総力の結集は国県及高森町の強力なる援助と相俟って其の不屈の努力は幾多の困難を克服殊に天龍川堤防線の後退による関連耕地事業の完遂迄には四ヶ年有余の歳月を費やし遂に復興は完成した、茲に永く大災害の復興を記念し碑を建て斯る惨禍の再び起こらぬことを祈念するものである
昭和四十年九月 下市田区建之

(下部は、復旧工事や石碑の建立に貢献した企業や人々の名簿)

前の記事で見た石碑は高森町が建てたものだが、今回の石碑は下市田区で建てたものだった。

この図は、「高森町史 下巻」(1975)に掲載されている図に私が書き込みをしたものだ。
赤い枠が下市田区の範囲である。

下市田区は、南側には南大島川、北側には大島川があるが両河川とも氾濫した。地崩れも下市田地区だけで5ヶ所、この図に記載されている。
区内にある農業試験場も、(施設内の被害だけで)水田162アール、宅地24アール、建物10棟、農業機械など多数の被害を受けたという。
災害後、天龍川沿いの堤防を後退させたので、川沿いの水田も耕地整理をし直す必要があったようだ。4年間かけてこれらの事業が完成したので、区で石碑の建立をしたのだった。

高森町にはこの他にも、三六災害に関連した石碑「災害復興記念」(下伊那厚生病院敷地)「土地改良記念」(天龍川の近く)がある。死者が出た追分地籍には「慰霊碑」が建てられているので、次の機会に確認したい。

石碑の近くからは、旧下市田学校の校舎が見えた。私はまだ中に入ったことはない。

【参考】
「高森町史 下巻」(高森町史編纂委員会編/森町史刊行会/1975)

防災

Posted by Sakyo K.