高森町の復興記念碑

8月、旧下市田学校訪問と同日、高森町歴史民俗資料館「時の駅」に行った。
本館の東側、駐車場の脇に石碑が建てられている。

碑文を読むと、「昭和三十六年六月伊那谷を襲った梅雨前線豪雨~」という文で始まっている。
これはいわゆる「三六災害」の石碑だ。

三六災害については、例えば国土交通省天竜川河川事務所がアーカイブサイトを開設している。
三六災害アーカイブス
伊那谷の死者は136名、1500戸の家屋が全壊・流失・半壊したという。

この石碑は高森町が建てたものなので、町内の被害についてのみ記されている。
碑文を以下に書き写す。

復興記念
 昭和三十六年六月伊那谷を襲った梅雨前線豪雨は忽ち五百ミリを超え未曾有の大災害となった 當町に於ても至る所の山腹が崩落し渓流河川悉く氾濫し天竜川は満水となり歴史を誇る堤防もついに決壊した 死者十一名流失全半壊家屋百八戸田畑山林の流失二百五十町歩に及び橋は流れ道路や鉄道も寸断されて交通途絶し電燈も消えて一時暗黒の町と化し被害総額三十五億円と推定された
 不安の中に不眠不休水防に当った町民は雨が止むと直ちに災害の克服に立ち上がった 災害救助法が発動され各種の特別立法が成立し関係各方面の援助協力の元に全町民一体となって災害の復旧に努力した結果復興は着着と進み爾来四年にして国県町等の工費合せて三十億円余に達する復旧事業も漸く完成し郷土の山河は其の様相を一新し耕地は其の面目を改めるに至った
 茲に永く此の大災害の復興を記念するため碑を建て合せて災害犠牲者の冥福を祈り再び此のような災害の起こらぬ事を冀うものである
昭和三十九年十一月 高森町

「高森町史 下巻」(1975)に、災害時の様子が記されている。

1961年6月は25日から26日にかけて四国・近畿地方、26日から27日に近畿・中部地方、28日には関東地方が集中豪雨に見舞われた。
伊那谷では26日には朝から雨が強くなり、翌27日が最も降水量が多く323mmを観測した(高森中学校観測)。
町内の河川は氾濫し家屋浸水や流失が起こる。上流での土砂崩れが川をせき止め土石流となって下流を襲う。土石流に巻き込まれ死者・行方不明者が出た。
天竜川の惣兵衛堤防は補強工事が続けられたが29日に決壊し、農業試験場の建物や水田が飲み込まれた。

町内の災害の被害は

人員被害
・死者9名、行方不明者2名
・負傷者17名
家屋被害
・流失埋没42戸 罹災者202名
・全壊23戸 罹災者118名
・半壊43戸 罹災者210名
・床下浸水360戸 罹災者1440名
土木
・道路
  欠潰延長 20,289m
  破損延長 25,365m
・橋梁
  欠潰 58ヶ所
  破損 17ヶ所
・河川
  護岸欠損延長 51,067m
  護岸破損延長 6,450m
・山林崩壊箇所 67
 崩壊面積 3484アール
農地 35ヶ所 122町

町は災害直後に実況調査を行なった。
天竜川は国の管理下にあるので護岸は建設省が対応する。林道治山については県の林務課、準用河川は県の建設課が担当する。それ以外は町が担当しなければならない。復旧のための復興局設置を7月18日、条例で決めた。 
翌1962年には各河川や天竜川の堤防工事が完成。治山治水砂防工事も進んだ。
農地は1963年には復旧95%を達成した。

1964年、復興局開設3年後、概ね復旧は完了したので復興局を閉局し、記念碑を建てて後世に伝えることとした。

11月25日に復興の祝祭が開催され、石碑が序幕された。石碑は町役場前庭(当時)に建てられたのだが、石碑に使われた石は、田沢川上流で出水の時に露出したものを運び出し、台石も河川を流れ出した岩石の中から選ばれたという。

***

国土地理院サイトには、「自然災害伝承碑」のページがある。日本各地に残されている自然災害を伝える石碑の記録だ。

画像は閲覧画面をキャプチャしたものだが、高森町のところを表示している。アイコンをクリックすると、一つ一つの石碑の内容が表示されるようになっている。

【参考】
「高森町史 下巻」(高森町史編纂委員会篇 1975)
自然災害伝承碑の取り組み」(国土地理院サイト)   

防災

Posted by Sakyo K.