豊丘村の復興記念碑
前回の記事の最後で高森町の惣兵衛堤防について触れた。
飯田藩の命により造られ、1752年(宝暦2)に完成した堤防である。
堤防ができた側の土地の人は当然喜ぶだろうが、対岸はそうでもなかったようだ。
惣兵衛堤防ができた頃、対岸は林村。その少し下流側は伴野村だった。(現在はどちらも豊丘村。)
惣兵衛堤防からの水はねによる激流で、伴野村ではたびたび堤防が流出する被害を受けていたそうだ。
豊丘村誌(1975年刊行)によると、惣兵衛堤防にはね返された水は伴野村に向かって流れており、堤防が秋の収穫を前に流失してしまうこと数多かったとある。1860年(万延元)の伴野新田の流失は、残された図面によると1961年の「三六災害」以上であり、しかも伴野に被害が集中していたそうだ。
「河中に厳然として万波に揺るがぬ惣兵衛堤防も市田側から見れば神々しかったかも知れないが伴野側からは悪魔に見えたであろう」(下巻 p1226)と書かれていた。
高森町側から見た天竜川。向こうに見えるのが豊丘村。
さて。今回は三六災害の話なので、豊丘村側の三六災害の碑を見に行こう。
まずは伴野堤防のところにやってきた。この近くに石碑があるというのだ。
堤防の近くに伴野公園があり、いくつか石碑が建てられていた。
復興記念碑があった。碑文を見ると、豊丘村ではなく伴野区が建てたものだ。
句読点を補って書き写す。
「昭和三十六年六月二十五日より降り続いた梅雨前線による雨は空前の集中豪雨となり、二十八日迄の降雨量は実に六百ミリに及び、山は崩れ河川は氾濫し、荒れ狂う天竜の濁流は堤防より高く区民必死の防災も空しく二十八日午前五時十分明治以来の歴史を誇る伴野堤防も遂に決壊し、三十八町歩余の美田と二十七戸に及ぶ家屋は忽ち流失し一面の川原と化したのを始め、壬生沢川堤防の決壊・虻川の氾濫・無数の山崩れ等により家屋耕地の流失埋没が続発し、尊い二人の人命をも失う未曾有の大災害となった。道路は寸断され通信は杜絶え、電燈は消え暗黒と恐怖に戦く日が続きその惨状は真に言語に絶するものあり、呆然自失為すすべを知らない有様であった。
併しながら国の災害救助法の発動を始め県並びに村当局の救助態勢の整備に伴い、区民の復興に対する意欲は力強く燃え上がり同年七月五日復興委員会を組織し復興の第一歩を踏み出すことになった。爾来約二年、関係各機関の指導と施行業者の卓越せる技術加うるに区民の血の滲むが如き努力と協力により災害前と様相を一変する近代的な復興を完成し得たものである。
ここにこの未曾有の大災害復興事業を永く記念し今後かかる大災害の再び生ずること無きを祈念し一碑を建立するもの也
昭和四十七年四月吉日 伴野区」
公園内には他にも石碑がある。
これは開墾組彰功之碑。
開墾組というのは、1884年(明治17)に、松尾千振(ちふる)が中心になって結成された団体で、伴野堤防を再建し、農地を開拓することを目的としていた。33名が参加し活動をしたが、指導者松尾千振が1892年(明治25)に39歳の若さで死去してしまう。組は堤防の築造や毎年の補修、農地の開拓を続け、1909年(明治42)年に事業が完了したとして解散した。
この碑は、開墾組の解散に当たって建立されたものだ。
こちらは、同じ公園内に立つ松尾千振の頌徳碑。こちらは1901年(明治34)に建てられたそうだ。
開墾組の活動で完成した伴野堤防も、1961年の水害で流されてしまった。その後の復興事業で現在の堤防が建設された。
場所を移動しよう。
豊丘村公民館の敷地に復興碑があるというので確認する。
正面に碑文が刻まれているので句読点を補って書き写す。
「昭和三十六年六月伊那谷を襲った梅雨前線豪雨は、死者三名負傷者二十四名流失全半壊家屋六十八戸、田畑の流失埋没百六十五町歩、被害総額十六億円に及ぶ未曾有の大災害となり茫然自失再起の見込みさえ立たない惨状であった。
しかし災害救助法の発動を始め関係各方面の指導援助と四年に亘る全村民不屈の努力とによって復興の難事業は遂に完成し荒れ果てた郷土はみごとに改良復旧されるに至った。
茲に永く大災害の復興を記念し再びこのような災害の起こらないよう祈念してこの碑を建てるものである。
昭和四十年四月 豊丘村」
石碑の左側の松は、災害記念樹として植えられたものらしい。
この碑は1965年に建てられたのだが、当時はここが豊丘村役場だったようだ。
現在も役場の門柱が残っている。
写真の奥の建物は、左側が図書館で右側が公民館だ。写真には写っていないが、右側には豊丘村歴史民俗資料館がある。もう夕方だったので、中を見ることができなかったのが残念だ。
以前の記事でも触れたが、国土地理院が「自然災害伝承碑」というサイトを2020年から公開している。
そこに載っている三六災害に関連した石碑のうち、高森町と豊丘村については自分で確認することができた。
伊那谷には他の市町村にも同様の石碑があるが、とりあえず今回の記事で一区切りとする。
【参考】
「豊丘村誌 下巻」(豊丘村誌編纂委員会編/1975年)
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