旧下市田学校校舎

2023-04-27

長野県下伊那郡高森町に、明治時代に建てられた旧下市田学校が残っている。
この8月に外観だけだが見てきたので、記事を書くことにした。

JR飯田線の下市田駅から北西に600mほどのところに、旧下市田学校はある。隣には下市田保育園がある。
この校舎が建てられたのは1888年(明治21)のこと。

明治初期、この地域は下市田村だった。1872年(明治5)の学制発布を受けてその翌年、下市田村では安養寺本堂を借り受けて「訓蒙小校」を開校した。
その後地元の人々の寄付を元に、1875年(明治8)に校舎を新築し、名称を下市田学校とした。
ところが1886年(明治19)3月に火災で校舎が焼失してしまった。
そこで1888年(明治21)に新たに建てられたのが、現在残っているこの校舎である。

校舎の建設は地元の大工が請け負ったが、玄関部分は名人といわれた木曽の宮大工坂田亀吉に依頼をした。
下市田学校は、新築時は現在位置から少しずれた位置に東向きに建てられていたが、生徒数の増加により増築され、1911年には運動場拡張のために移動して現在の位置になったらしい。

なお、1889年(明治22)に町村制が施行され、上市田村、下市田村、吉田村、牛牧村、出原村、大島山村の区域が市田村となった。市田村で一校に統合するという話もあったのだが、反対もあり、吉田、下市田、牛牧の3学区制となった。

明治時代後半、市田村の教育費は、村の予算の60%くらいを占めていた。当時は義務教育の教員給の国庫負担はなかったので(大正時代に国に請願も出しているのだが、実現したのは1941年)、教育費といっても教員の給与が大半だったのだ。
そこで、1915年(大正4)に学校を統合することになった。市田尋常高等小学校という名前になり、校長が一人となったが、校舎は3校そのままで、それぞれが部校として運営が進められる形となった。

校舎の統合についても話し合いが進められたのだが、学校をどこに建てるか村民の意見がまとまらなかった。そこで1926年(大正15)に敷地選定委員会を設立して話し合いを進めた。翌年(1927年=昭和2)まで会合を60回開いたが、このときは結局保留され、実際に決議されたのは1930年になってからだった。
第1期工事として本校舎や体操場等が建設され、1931年3月8日起工、落成式が1931年11月23日に開催されている。(第2期工事は1932~33年。)
1933年10月には、全児童が新校舎に移ったので、下市田・吉田・牛牧の元校地は廃止され、村で管理することとなった。

下市田学校はしばらく、補習科として使われたようである。

1935年4月、青年学校令が公布された。青年学校は義務教育を終えて勤労する青少年に社会教育を行なうものである。
明治時代から行われていた実業補習学校と、1926年に設置された青年訓練所を統合するもので、職業訓練と軍事教練の役割を持たせていた。
市田村では1935年9月に開設され、旧下市田学校の校舎は青年学校の校舎として使われることとなった。

終戦後、学制の切り替えが進められた。国民学校初等科は1947年度から小学校に、高等科は中学校に切り替えられた。青年学校は普通科は1946年度で廃止され翌年から中学校に編入、本科は1947年度で廃止され48年度に高等学校に編入することになった。
県立の旧制中学校はそのまま新制高等学校になったが、定員があるので教育の機会均等という立場から各地域は新制高校の設立を考えなければならなかった。

市田村では、青年学校だった校舎をそのまま高等学校の分校として使いたいという希望であった。
1948年5月1日、下伊那農業高等学校定時制分校(市田分校)として県から認可され、以後は定時制分校の校舎として使われた。

1957年に市田村と山吹村が合併して高森町となったので、名称が高森分校となったが、1980年に分校が本校に統合されて廃止されるまで、校舎として使われていた。

この写真は「高森町史 下巻」から引用した。町史は1975年の発行なので、下伊那農業高等学校の分校時代に撮影されたものである。左右にストーブの煙突が突き出ているのが見える。

これは余談になるが、地元の施設を高校の分校にしたいという希望は下伊那郡各地であったようで、1948年の5月から9月にかけて下伊那農業高等学校の分校が16も発足している。さらに翌年に1校加わり、一時は分校の数が17校というとんでもないことになっていた。

下伊那で当時定時制をもつのは飯田西・飯田商工・下伊那農業の3校で、当初は3校で分担するはずだったのに、村の希望する分野が農業色の強いものばかりで結果的に下伊那農業が引き受けざるを得なくなったらしい。
これでは運営も無理なので、県は1951年に6分校を阿南高校へ移管、4分校を阿智高校へ移管して対応したようだ。

話を戻して。
建物の前には、解説板が立てられている。

どこの学校の分校なのか書いてないが、下伊那農業高等学校の分校だったのだ。
ここにもあるように、閉校後は町の文化財に指定されて、現在は地域の行事などに使われている。

私が訪問した時も、使っている方がいらっしゃって中から声が聞こえたが、勝手に入って行くのもためらわれたので、開いている横の入り口から廊下だけ勝手に撮影させてもらった。ここが生徒の出入り口だったようだ。

こちらは建物の背面側。

最後は正面から。窓部分の内側に鉄筋の筋交いで補強されているのが分かるが、他にも屋根の補修や壁の塗り替えなど、建物を活用して行くための修繕が行われているそうだ。

機会があれば内部にも入ってみたいものだ。

【参考】
「高森町史 下巻」(高森町史刊行会、1975年)
「文化財ガイドブック」(高森町歴史民俗資料館、2007年)
「沿革史五十年の歩み」(長野県下伊那農業高等学校、1970年)

甲信越地方

Posted by Sakyo K.