旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫
写真は、松本市にある信州大学中央図書館である。
ここで9月13日から10月16日まで、企画展「掘るしん in 信州大学─赤レンガの考古資料─」が開かれている。
かつて、信州大学医学部が県内の研究者と協力して遺跡の発掘調査を行なっていたのだが、その発掘資料が信州大学松本キャンパスの赤レンガ倉庫に保管されていたという。
長野県埋蔵文化財センターの再調査により、その重要さを再確認したので、一部をここに展示しているのだ。
展示会場は撮影禁止なので写真はないが、石器や土偶などが展示されている。
せっかく松本キャンパスに来たので、信州大学の赤レンガ倉庫を自分の目で見ることにした。
図書館を出て200mほど歩くと、赤レンガ倉庫が見えてくる。
この建物はもともとは松本歩兵五十連隊の施設として建てられたものだ。最初は庖厨所として建てられ、その後は糧秣庫として使われた。
この赤レンガ倉庫の保存についてのシンポジウムの記事を2019年に書いたので、建物の歴史についてはそちらもご覧戴きたい。(末尾にリンクあり)
入口の横には、かつての門柱の一部と、登録有形文化財のプレートと説明板、それから「陸軍用地」と彫られた杭がある。
この建物は2012年に登録有形文化財として登録されたのだ。
説明版の内容を引用する。
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫
現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。第五十連隊は日露戦争注の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地とすることが決まり、その翌年に現地に入った。糧秣この建築年代は定かではないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間 9.09m(約5間)、桁行 36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。小屋組みは、洋小屋、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。出入口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3カ所の煉瓦の内壁で4室に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北面の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現在に使えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。」
正面出入り口は建物の西面にある。
左右の門柱は、下の写真の門柱の頭部を移築したものだという。1994年頃、別の煉瓦建物が解体された時期に、門柱を保存することが決まったらしい。(でも微妙に形が異なっているのが気になる。)
建物の周囲を歩いてみる。
これは北面。
説明の中にあった出窓も見える。
これは東側の壁面。大きな窓が一つある。
南側にやって来た。
南面の西端の壁面。煉瓦の積み方はイギリス積みだ。
イギリス積みは、一段目は煉瓦の長辺を見せ、二段目は向きを変えて煉瓦の短辺を見せ、それを交互に繰り返す積み方。
ここに限らず、近年作られた説明板が長持ちしないという問題はどうにかならないのか。そのうち読めなくなってしまうだろう。
実は、松本キャンパスの東側の駐車場の脇にも糧秣庫の説明碑が設置されている。こちらは石なので上の看板よりは長持ちするだろう。でも製作費用も掛かるのだろうと思う。
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