赤レンガでつなぐとき、まち、ひと(2)

3月31日に行われたシンポジウム、「赤レンガでつなぐとき、まち、ひと」に参加して。
前回の続きです。写真は会場の信毎メディアガーデンです。

信州大学人文学部の久保亨特任教授からは、「市民運動と赤レンガ倉庫」という発表がありました。それによると、赤レンガ建築を保存しようという運動は、以前もあったのだそうです。

前記事で「1994(平成6)年に庖厨浴室が解体された」と書きましたが、その当時のお話です。
1993年に「赤レンガ兵舎の保存を考える会」が活動を始めました。

庖厨浴室の解体は1993年に決定されており、解体は避けられないということで、会は93年12月に次のような要望を医学部長に申し入れしたそうです。
・解体にあたって、内部構造を明らかにするような調査を実施する。
・玄関の石組みアーチや暖炉など、部分的に保存をすること。
・東側に隣接する赤レンガ旧兵舎(現存している旧糧秣庫)の積極的な保存利用策を検討すること。

医学部長からは94年の1月に次のような回答がありました。(→は実際の対応)
・調査を松本市に依頼して実施している。(→依頼関係はよく分からないが、調査結果はある。)
・アーチなどの保存は不可能だが、門柱などの保存であれば交渉の余地あり。(→門柱を保存)
・東側建物は当面残す。(→屋根の葺替え工事が実施)

市民運動の思いの背景には、松本連隊の記憶がありました。
五十連隊は1905年に創設され、松本に駐屯した1908(明治41)年以降、満州駐屯、シベリア出兵、山東出兵など大陸へ派遣されてきました。日中戦争では河北戦線・南京攻撃に参加。1944年には、テニアン島に派遣された連隊は全滅しています。(テニアン島での日本軍 9962名戦死、生還271名)
また同年、松本駐屯の150連隊もトラック島へ派遣され、多くの死者を出しています。

当時、「考える会」では会合の時に何回も元兵士の方の話しを聞き、この建物を平和の発信地としたいという思いで活動をしたということでした。
赤レンガを残す意義として、平和への願いはやはり外せないものだと思います。

セッションⅡでは、「赤レンガのこれから」ということで現在の活用状況や将来の活用プランの話がありました。例えば、人文学部では、近代遺産の利活用ということで2014年から学生が若手芸術家を招いて倉庫で企画展を開いているそうです。

写真は、当日会場入口に掲示してあった信濃毎日新聞の記事です(この写真では文字は読めませんが)。「赤レンガ倉庫は語る」というシリーズで連載がされていました。記事の中にも、その芸術家を招いた活動は書かれています。

また、他の地域の活用事例ということで、例えば甲府市の山梨大学赤レンガ館も挙げられました。(これは私も過去にポップアップカードを作ったのでとりあえず宣伝。旧歩兵第四十九連隊糧秣庫。煉瓦の建物は着色版を作った方が良さそうですねえ。)
山梨大学の場合は多目的ホールとして、附属学校の利用も多く、またサークルや学外団体も利用しているそうです。

最後は全体討論でした。
全体討論を聞いての私の感想です。

(1)建物の意義・位置づけについて
戦争遺産ということで平和の発信をすることはもちろん大事ですが、建物の歴史は陸軍が使っていた時期だけではありません。戦後は医学部の教室として使われ、人の命を救う医師を育てた施設でもあるのです。登録有形文化財の申請の時には戦争遺産という「負の遺産」ということで否定的な意見もあったとのこと。建物の歴史を踏まえて、どういう位置づけをしていくのかが課題だと感じました。少なくとも「五十連隊」は外せないと思いますが、それだけにもできないのでしょう。

(2)施設の使い方について
討論の中で「大学の公共性」も話題になりました。開かれた施設とするために、学生だけでなく市民が使えるものを考えているということです。どういう施設に育てていくのか、期待したいです。

(3)費用の問題
信州大学では「信州大学赤レンガ倉庫プロジェクト」というクラウドファンディングを実施していることも、全体会の中で触れられました。大学予算から補修費を出すのが困難だということです。現在は補修のための200万円を募っていますが、今後の補修・改修にかかる費用は1億円だそうです。それをどこから出すのか…大変だろうなあと思います。

他の建物解体のニュースなどを見て、建物を残せるかどうかは「残す意思」の強さが大切なのだと感じています。今回の赤レンガ倉庫は残すことが前提であるので、活用を期待します。

以上、うまくまとまりませんでしたが参加報告です。

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