龍岡城跡の歴史(1)

2021-06-22

前回の記事の続き。龍岡城の歴史についてもう少し書く。

1871年(明治4)に明治政府から城を取り壊す指示が出されたので、龍岡城は御殿の一部の御台所を残し、他の建物は払い下げられた。十数年かけて、土塁が削られ堀は徐々に埋め立てられていったという。(※)

現在は写真のように堀は水を湛えているが、明治~大正時代はそうではなかったのだ。埋められた堀は、明治30年頃にはほとんど桑畑となっていたようだ。

廃城になってからの龍岡城跡の変化を見てみよう。

1873年(明治6)に学制が発布され、この地域では現在の蕃松院に尚友学校が開かれた。
1875年(明治8)、御台所が寄付され、尚友学校の校舎として改築、使用されるようになった。この時から、龍岡城跡は学校となる。
1886年(明治19)に尚友学校は田口学校と改称された。
1890年(明治23)に田口尋常小学校となる。
1894年から1902年(明治27~35)にかけて、校舎が新築される。まずは東校舎(1894)、そして雨天体操場(1898)、北校舎と南校舎(1902)が建てられた。
1919年(大正8)には東校舎増築、1926年(大正15)には北校舎が二階建てに増築されている。

この時代、「城址」としてはどう見られていたのだろうか。1915年(大正4)に発行されたガイドブック「佐久鉄道案内」に、少しだけ出ていた。なお、佐久鉄道は、今の小海線の前身の私鉄である。

田口村の紹介の中に、次のように書かれている。
「近世大給氏一萬石を領して龍岡藩と称せし所、青苔、深濠、石砦の蹟を覆ひて、旧城五稜廓の名昔を偲ばしむ」
観光ガイドだからか、旧城内に学校があることには触れていない。

大正時代、軍国主義が教育の場にも影響を与えるようになり、教育の目的に「国民道徳・国家思想の涵養」が設定された。
昭和になり1929年の世界恐慌後、戦時色が強まっていく。1935年には「教学刷新評議会」が設置され、「国体観念、日本精神」を根本として学問、教育刷新を図るという方針が出された。

これと前後して教育会では「郷土理解が重要である」ことが強調されていた。そういった風潮の中で、信濃教育会南佐久部会では、昭和5年(1930年)度の事業として郡内古城址調査を行なうことを決定している。

南佐久部会は古城址の調査結果を1935年(昭和10)に「南佐久郡古城址調査」(信濃教育会南佐久部会 編 )として出版した。
その中に龍岡城跡の図面が掲載されていたので、それを元にして次の図を描いた。

薄茶色の部分は畑である。ほとんどが桑畑であったようだ。堀のあった場所も桑畑となっている。東側の堀は白くなっているが、原図にはここには畑の記載がなかったので白いままにした。でも図に書いてないだけでここも桑畑だった可能性が高いと思う。

なお、御台所は1929年(昭和4)に現在の場所に移転して、修繕されている。それまでは、東校舎の近くにあった。
そこで、移転前の場所も図に入れてみた。移転前は、築城当時の場所にずっとあったのだな。

さて、地域の方でも城址に関する意識は変わっていた。
1932年(昭和7)、龍岡城保存会が組織されたのだ。保存会は陸軍築城本部から専門家を招いて、堀の掘り出しを主とする復元工事を行なった。(~1933年)
そして、「龍岡城跡」は1934年に文部省から国の史跡に指定されることになった。

この頃の様子を、1940年発行の「日本史蹟の研究」(上田三平著・第一公論社)は次のように記している。

「元来龍岡藩の城廓には函館の如き華々しき戦歴を有せず、規模も小さいばかりでなく廃藩の間近に竣工し暫くにして破壊され為めに所在地の人々すらも、それがいかがなる構造であったかを知らず廓内の主要部に小学校を建設して居るに過ぎない有り様であった。

然るに近年史蹟顕彰の声が高まると共に土地の有志は旧藩の城阯の規模を復元し、之を保存せんとする念願を起こし、東京在住同藩出身の田代常氏等と謀り保存会を組織し、築城本部の人々とも相談して調査の結果、遂に五稜廓の制に拠れる城阯たるを発見したので、直に文部省に対し史蹟として指定されんことを申請し、文部省よりは荻野嘱託実地を踏査され、昭和九年五月文部大臣より史蹟として指定されたのである。」

大正時代にも五稜郭の名はガイドブックに載っていたのだから、前半部分は少し話を大げさに書いているのではないかという気もしたが。大半の人にとってはそんなものだったのかもしれない。
ともかく、1934年(昭和9)に龍岡城跡は国の史蹟となったのだった。

(つづく)

【付記】(※印部分)
廃城後、計画的に堀を埋め立てたイメージを持っていたのだが、どうも違うようだ。十数年くらいかけて徐々に埋まっていったらしい。以前のブログではそれを知らずに書いていたので、過去記事はちょっとズレてしまっている部分があると思う。

【参考】
「史蹟龍岡城跡 保存管理計画書」(佐久市教育委員会 2013)
「佐久市埋蔵文化財調査報告書 龍岡城跡Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ」(佐久市教育委員会 2014)
「南佐久郡古城址調査」(信濃教育会南佐久部会 編  1935)
「佐久鉄道案内」(佐久鉄道株式会社編 1915)
「日本史蹟の研究」(上田三平著 第一公論社 1940)

文化財

Posted by Sakyo K.