龍岡城跡の歴史(2)

2021-06-23

1929年(昭和4)の世界恐慌で、日本経済は危機的状況に陥った。1930年には繭や米価も大暴落をして農村も打撃を受けた。
1931年、満州事変。1933年、日本は国際連盟の脱退を表明した。
そういう雰囲気の中で、1933年に龍岡城保存会が組織され、城跡を復旧して、翌年国の史跡に指定された。
写真は解りにくいが、昭和9年の文部省指定の文章を看板にしたもの。

田口小学校の年表を見ると、
1934年9月に奉安殿新設(これは以前あったものの建て直し)とある。
年明けの元日に大手橋渡橋式が行われているので、橋も再建されたようだ。

その後、校地の施設は、
1938年、東校舎の解体、
1939年、雨天体操場の改築、
1940年、南校舎の東側に2階建て6教室の棟を新築、
と変更が加えられた。
1941年には田口国民学校と名称を変え、学童の勤労奉仕も盛んになっていく。
そして1945年終戦。
1946年には奉安殿が解体された。

戦後の状況については、図は見つけられないものの航空写真があるので、写真と照らし合わせて作図してみた。

まずは1948年。

前年の1947年に学校教育法が施行され、新制中学校が発足した。今までの国民学校高等科の生徒が中学生となるので、南校舎を中学校とした。
航空写真を見ると、北側の堀には水があるように見える。東と南の堀は、戦中から戦後にかけて水田として使っていたらしい。

次に航空写真で確認できたのが、1955年。

中学校の校舎の形が変わっている。
市の資料によると、校舎の「新築」工事が1948年12月に着工して、49年完了したということだ。
ただ、学校資料によると「古い校舎を移動して増築した」とあったので、実際どうだったのかよく分からない。ともかく航空写真では校舎の位置は図のようになっていた。
体育館は1955年5月に竣工したものである。

その後、1956年に田口村と青沼村が合併して田口青沼村となった。
翌年の1957年には、臼田町と合併して新たに臼田町が発足した。学校名は臼田町立田口小学校となった。

堀が水田として使われていたのは1940年代だけだったようで、この頃は堀は荒れ地となってアシやヨシが茂っていた。ほとんどごみ捨て場のような状況だったらしい。
1959年には、台風7号のため校舎に大きな被害を受けた。御台所も損傷し、翌年から改修工事が行なわれている。

次の図は1975年。

航空写真が撮影される前の1973年に田口小学校の校舎が新築された。これは現在もある校舎だ。
校舎新築に合わせて、住民作業で堀の清掃も行われた。半年掛かりの作業を経て、1974年に堀に水が入れられた。
プールは、1961年に設置されたものである。

この時期に、臼田町は「龍岡城史跡保存管理計画」を作っている。(1974年)
町が立てた復元計画の内容は、
1)1975年度、大手橋、東通用橋の修理をして史跡内の私有地の公有化を実現させる。
2)1976年度、史跡土塁の整備復元をし、私有地を公有化する。
3)1977~79年に土塁整備、堀、石垣、漏水防止対策を行なう。また、旧田野口藩の建造物の一部を買い戻して復元させる。
というものだった。
文化庁からは、史跡保存管理計画策定事業は実施困難だと回答されたのだが。(1975年2月)

最後は、2020年の状況である。

プールは、1998年に城郭の外に移設された。そして旧プールは2007年に撤去工事が行なわれた。
2005年に臼田町は合併して佐久市となったので、現在の学校名は佐久市立田口小学校である。

以前書いたように、田口小学校は2022年度末で閉校となる予定である。
佐久市は、校舎を撤去して、竣工当時の龍岡城にすることを計画している。

私は、百数十年前のわずか数年だけを取り出して大事にするようなことは、他の歴史の切り捨てだと思っているので、反対なのだけれど。
佐久市はまた「市内にある古い建物を買い戻そう」などと言い出すのではないか。その移築した建物も、百数十年、その地で存続しているのである。もし、それを買い戻そうと考えているとしたら、傲慢だなあと思ってしまう。

城跡を学校として使ってきた歴史を大切にしてほしいと願っているが、市は「観光資源」としてしか見ていないので、無理な話かな。オリジナル至上主義はもうやめた方がいいと思いますよ。

【参考】
「百周年記念誌」(田口小学校百周年記念事業推進委員会 発行 1973年)
「佐久市埋蔵文化財調査報告書 龍岡城跡Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ」(佐久市教育委員会 2014)(この中の〝田口小学校の児童が作った年表〟は興味深い)

文化財

Posted by Sakyo K.