再び拾ヶ堰へ(1)
長野県安曇野市にある、1816年(文化13)に開削された用水路「拾ヶ堰」(じっかせぎ)。拾ヶ堰に沿って自転車道が設けられているので、昨年、そのおよそ半分を走った。
今年の5月半ば、「拾ヶ堰の絵図発見」というニュースがあり、5月末に豊科郷土博物館で公開するということを聞いた(市民タイムスWEB)。絵図を見たいと思い、せっかくだから去年見なかった拾ヶ堰の残り半分も見に行くことにした。
今回の訪問予定範囲
前回は、拾ヶ堰の取水口(頭首工)から、万水川と交差するところまで走っているので、今回は地図の赤い線を走る予定。
今回も車に自転車を積み「道の駅ほりがねの里」まで行く。そこから拾ヶ堰に沿って自転車で往復した後、車で豊科郷土博物館へ向かう予定。
この日はとても良い天気だった。田植えが終わった水田の向こうに北アルプスが見える。
まずは自転車道の起点に向かう。国道147号線の穂高橋の脇が、自転車道の起点だ。
すぐ近くに、自転車道の案内地図があった。
自転車道は、線路の下をくぐっている。
ほとんど平らで、走りやすい。
また案内板があった。ここは拾ヶ堰の放水口のすぐ近く。
写真が分かりにくいけれど、左側が拾ヶ堰の放水口。右端の河原が烏川で、ここで合流する。左にある建物は自動車学校だ。
拾ヶ堰の放水口。
写真は、下流を向いて放水口の方を眺めたところ。右側の道は自転車道ではなく車道。
ここから上流は、自転車道と車道が拾ヶ堰に沿って走っている。
これは放水口から200mくらいのところにある、本郷調整堰。
そのすぐ近くに「穂高1 大黒屋堰分水口」と表示板が掲示されている。拾ヶ堰から水を分けている分水口なのだろう。この後も、いくつも「分水口」の表示を見た。拾ヶ堰からの分水だけではなく、逆に拾ヶ堰に合流する堰もある。
放水口から600mの地点。二つ目の調整堰が見えた。柏原調整堰だ。
この地域では、古くから作られた用水路の排水機能が不足していたため、大雨時に氾濫を起こし被害が発生していた。特に1983年の台風10号では、農作物や農業用施設に大きな被害をもたらした。それを契機に、1995年から2006年にかけて、「国営かんがい排水事業『安曇野地区』」が実施された。拾ヶ堰もその対象になっており、流路や調整堰、橋や防護柵などが整備されたのだという。併せて圃場整備も行われ、農業生産環境の改善を図る事業であった。
近くにあった分水口。「穂高5 二本松・ヒエ餅分水口」。
これは歩行者用の橋の上から撮影したもの。
自転車道のフェンスには、自転車の模様がついている。奥に見えるのは小学校。
二十三夜塔と道祖神が並んでいたのだが、二十三夜塔の文字が青で塗られている。道祖神にも着色されている。裏の文字「文政七甲申年二月」も黒く塗られていた。
この道祖神は毎年2月の道祖神祭りの時に子どもたちが彩色をする習わしになっているのだそうだ。
なぜ彩色が始まったかは分からないのだが、一説には、穂高神社の御船祭で穂高人形を作っている人形師が道祖神に色を塗ったのが始めではないか、と言われているらしい。穂高には、ほかにも彩色道祖神が十数ヶ所あるようだ。
これは、下流側を向いて撮影したもの。ここは放水口から約1.6kmの地点。
このように水際に下りる道が、ところどころに作られている。
(つづく)
【参考】
「平成27年度 国営土地改良事業等事後評価 国営かんがい排水事業『安曇野地区』基礎資料」(関東農政局・2015年)
「ふるさと安曇野 きのう きょう あしたNo.10」(安曇野市豊科郷土博物館編集・2013年)
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