旧中込学校見学記

この夏は、長野県佐久市を訪れました。
目的地のひとつは、重要文化財・国史跡になっている旧中込学校です。

観覧料 一般250円・高校生大学生150円・小中学生120円。
建物の前に表札があって説明文が書いてありました。


 

(表札を引用)
重要文化財 旧中込学校
 この建築物は,明治八年四月に着工し,同年十二月二十五日に総工費六千九十八円五十一銭八里をもって完成され,当時は「成知学校」と呼ばれていたが,翌年中込学校と改称された。
 設計者は明治二年二月から六年六月までアメリカに学んだ佐久市石神出身の市川代治郎氏で,建物の内外に欧米風が多く取り入れられギヤマン学校として広くその名を知られ、見学に訪れる人が後を絶たなかったという。
 現在日本に残っている洋風の学校建築では最古のものであり、昭和44年三月十二日国の「重要文化財」に指定され,さらに敷地は同年四月十二日国の「史跡」に指定された。
 昭和四十六年八月一日から、国県の補助を得て解体復元工事に着手し、総工費四千七百三十五万円をもって四十八年六月三十日に完成した。建物は一たん解体し,組み直したが構造形式の踏襲はもちろん後世改変部については資料に基づき可及的当初の形式に復旧整備した。
  昭和四十八年七月一日 佐久市教育委員会
(引用終わり)


建物の方に近づいていくと,石碑がありました。
「災害復旧紀念碑」とあります。

石碑の裏面を読むと,昭和24年のキティ台風の時に堤防が決壊して被害を受けたので,河川改修や耕地整理をして復旧したこと、校地内にある藤の木が被害を受けたので,これも改装したこと、が記されています。石碑の建立は昭和25年8月31日付です。

石碑の文面の中に,「ソノ被害は往昔寛保ノ災害ヲ彷彿セシムルモノアリ」とありました。「寛保ノ災害」は,寛保二年(1742)年に千曲川・犀川流域で起こった洪水被害「戌の満水」のことですね。

玄関から入ります。

内部から外を見るとこんな様子です。扉の上に色ガラスが入っています。

中に入り奥の方を見ると突き当たりにも色ガラスが入っていました。

この写真の右側が「第一教場」、左側が「講堂」です。

第一教場には机が並べられています。


講堂の方にはオルガンが数台並べられていました。「昔のオルガンです どうぞ弾いてみてください」と表示がありましたが,楽器を弾けない悲しさ,私は見るだけです。

二階へ上がります。

二階の廊下の突き当たりにも,色ガラスが入っています。

二階の部屋割は,第二〜第四教場・教具室・校長室・教員控所となっています。
各部屋には資料が展示されていました。

中込学校の建物がどのように移り変わってきたか,図示されていました。長年掲示しているためか、なかなか味わいがある色になっています。

左上が明治8年の竣工当時です。本館と外に便所が附属しています。この段階では学校名は「成知学校」でした。
明治9年(図上段中央)の段階で,教員住宅,助教控室が付け加えられています。この年に「中込学校」と改称されます。
明治11年(図上段右)には聚待所が設置。聚待所というのは集会所というような意味ですが,講堂や教室として使われた建物です。
図の左下は明治32年〜大正4年ですが、新校舎棟が増えています。教員住宅と助教控室は用途が変わり、音楽室と女子聚待所となっています。
下段右図は大正10年ですが、さらに校舎がニ棟増えており,最初の校舎は役場に転用されたようです。(新校舎の建設や役場への転用は大正8年のことだそうです。)

図にはありませんがパンフレットによると、戦後は公民館支館、市役所分室、佐久市開発公社などと用途が変わりながら昭和43年まで利用されていました。

建物には八角形の塔屋が付いており,時を告げる吊り太鼓が設置されているそうですが、安全のため立ち入り禁止でした。

玄関上部のバルコニーはこんなふうになっています。ガラス越しに撮影しました。

建物から出て,周囲を一周します。左の壁に見える円窓が、色ガラスが入っている窓です。

校舎とは別に資料館があり、そちらにも資料展示がされています。
当時の教科書や資料,復元工事のときの図面,解体復元前にはめられてた色ガラス、それから祭屋台などの展示がありました。
社会評論家の丸岡秀子さん(1903-1990)もこの学校の卒業生ということで,彼女の資料も展示されています。

個人的に気になったのがこの資料。

佐久市でなく上田市にあった学校ですが「上田街学校」の写真です。初めて写真を見ました。
明治11年に建てられた学校ですが,明治31年に焼失してしまったそうです。
また後で調べてみたいです。