閉校時の姿を保存する学校

佐久市訪問記(2)です。
旧中込学校を見た後、次の目的地の旧大沢小学校に行きました。
ここは年に二回、ゴールデンウィークとお盆に一般公開をしているのです。
(それ以外でも佐久市教育委員会文化振興課文化財事務所に申し込めば対応してくれるようです。)

社会体育館の奥に目指す校舎がありました。

 
 
建物の前に案内板がありましたので、その内容を転記します。

(引用)
佐久市有形文化財 旧大沢小学校本館
指定年月日 平成八年六月六日
指定地   佐久市大字大沢七八九番地

 旧大沢小学校本館は,明治二十六年五月一日に竣工した。中央に玄関を配し中廊下が東西に走り中央階段を設けるという特徴を具備した数少ない明治中期の学校建造物である。土台石二重据、太い通し柱、二重梁、五方束などによって堅固な構造となっており,百年前の姿をとどめている。外部はペンキをぬり、窓わくに三本の水おとしをつけて水はけをよくしている。多少の改修の行われた形跡はあるが保存状態もよい。
 現在も保存されている「学校新築仕様払書」「大沢尋常小学校目論見帳」など貴重な記録が建築当時の事情を伝えており,村民の学校建築に寄せる意気込みを伝えている。村民のほとんどが建築に関わりを持ち,村民総参加の学校建築であった。また、建築用材の大部分は,村の共有林あるいは、新田や明神様の森から供給されたものである。
 昭和五十八年三月に,野沢小学校と統合して閉校になり資料館として現在に至っている。
平成十年三月三十一日 佐久市教育委員会
(引用終わり)

正面中央が玄関になっています。

こちらは玄関の内側です。上部にはガラス製の欄間。

玄関の床面はレンガ敷きです。

玄関を入ったところに受付の方がいらっしゃり、A4の資料をいただきました。資料には「大沢地区文化保存会」とあったので、地域の保存会の方々なのでしょう。職員室では説明もしていただけました。

 校舎建築当時の自治体は大沢村でした。大沢村では1873(明治6)年に「文明学校」という小学校が開設され,1886(明治19)年の学区改正で臼田高等小学校大沢分校(その2年後には尋常小学校臼田小学校大沢支校)となりました。1889(明治22)年に町村制が施行され単独の自治体となったときに、学校も大沢尋常小学校として独立校となっています。
 1891(明治24)年,村会で学校新築を可決し,現在地に土地を購入して整地を始めます。(整地作業中に古墳が発掘され,人骨や土器、刀剣類など出土したとのこと。)
 翌年2月、県知事から校舎新築の認可が下り,着工します。校舎が完成したのは1893(明治26)年の5月1日でした。
 その後,1908(明治41)年には東校舎と雨天体操場を新築。1942(昭和17)年には西校舎が新築されています。

 大沢村は戦後の1954(昭和29)年に野沢町など計5町村で合併し,改めて野沢町となりました。その後1961年に野沢町・中込町・浅間町・東村が合併して,佐久市が発足しました。
 学校は野沢町立→佐久町立大沢小学校となりますが、1983(昭和58)年3月末に野沢小学校と統合して閉校となりました。本館以外の校舎はその後解体されます。

 校舎の中は,閉校した瞬間のまま時を止めておこうとしています。職員室に入ると黒板に文字が残っていました。

「昭和五十八年三月二十九日五時十分
 大沢小学校百余年の教育を閉じる
 世の流れとはいえ一抹の淋しさあり
 しかれども
 子どもたちの大いなる成長を祈りて錠をおろす
 長野県佐久市立大沢小学校職員一同
 
 いつの日まで消えないで残るか さわらないでほしい 」

閉校から今年で35年。まだしっかりと黒板の文字は残っています。

職員室の掲示や、職員名札も残されています。

印刷機ですね。その横にはカギがぶら下がっているのも見えます。(赤いキャップは蜂用の殺虫剤なので最近のものです)

職員室の窓です。表の説明板に「窓わくに三本の水おとしをつけて水はけをよくしている」とありますが、その水おとしはこれです。

実は最近まで後付けのアルミサッシが付いていたのですが,古い木枠の窓を保存してあったので,今回木枠の窓に取り替えて公開をしたのだそうです。

他の部屋は,資料室となっていますが、まだ未整理の部屋もあるそうです。

二階へ上がります。この階段の雰囲気,いいですねえ。

階段を上がった右側にあるのは図書館でした。今回は地域の写真展を行なっていました。

部屋の名称を確認し忘れましたが畳敷きの部屋(あとでサイトを見たら家庭科室だそうです)。左側の展示は,佐久地方の小学校の昔の写真がまとめられていました。

二階にも,いろいろな資料が収蔵されていました。廊下には,掛図や学校の表札も。国民学校時代の表札もあります。

校舎の外に出ました。こちらは背面になります。

資料によると,もともとは壁面に白いペンキが塗られていたそうです。表側で見た窓枠のところにも,白いペンキの跡が残っていました。
おそらく保存会では、この校舎を竣工時の姿に戻そうとは思わないでしょうし,このままの雰囲気で維持したいのだと思います。ただ、心配なのは外壁の傷みが進んでいきそうなので,保護塗料とか何か対策が必要になるのかもしれません。
普段公開していない建物というのはなかなか維持管理が難しいと思いますが、いい雰囲気を保って維持していければいいなあと思います。