旧志賀小学校北校舎
前回の記事で映画上映会のことを書いたが、その際に校舎内を見学できたのでこの記事ではそれを紹介したい。

北校舎の入り口。午後1回目の上映が行われている間は入らないように案内表示があった。
私は2回目の上映を申し込んだのだが受付開始時刻より早く着いたので、建物の外側を見て歩いていた。
北校舎の西側には地下室への階段がある。

北校舎の北面。窓と扉が開いている。この校舎が使われているのを見るのは私は始めてだ。
窓枠の周囲は白いペンキが塗られているが、窓枠周辺だけ塗装をしたのだろうか。

さて、上映が終わって皆さん校舎から出てきので、中を見学させていただこう。
ここは1枚目の写真の場所から建物の中に入ったところ。北校舎の中央にあたる。
正面には階段があり、左右に教室が二つずつある。(←正確な表現ではないので、後述の配置図を参照。)

1階の廊下を右に曲がった。この右側の教室が今回の映画上映会場だ。椅子が並べられている。

廊下の奥には机や棚などの備品が廊下の左右に置かれていた。
奥の教室も物置となっていた。
突き当たりから外へ出られるが、もとはその向こうに校舎が一棟建っていた。閉校後(何年後かは不明)に解体され現在はプレハブが建っている。
奥の左側にはトイレがあるが、もう使えないので廊下に棚を置いて閉鎖されていた。
中央階段の踊り場から撮影した。
思ったより階段の幅が広い。2.2mくらいあるだろうか。歩いた印象もけっこうしっかりしていた。

二階の東側を見ている。

突き当たりの壁だが、窓が不自然に低い。もし校舎だったら児童が転落する低さだよ。
(さきほど書いたように)1948年に増築された校舎が東側にあり、その校舎と接続されていたのだろう。東校舎を解体した時にここに壁を作って窓を付けたのだが、この大きさの窓を計画していたのに梁があることに気づいて窓を低くせざるを得なくなったのでは…と想像した。
東端の教室は物置になっていた。床の配線などは閉校後に佐久市の文化財課が使用していた時のものではないかと思う。

壁には文化財課長によるストーブの使用についての掲示が残っていた。灯油の節約と、施設が古いからすきま風は仕方がないので各自対応してくれ、という呼び掛けだ。
壁に貼られたカレンダーは2004年のものだった。
何年ごろの図か分からないが、埋蔵文化財課が利用していた時の平面図も残っていた。
こういうのを見ると当時の使われ方がいろいろ分かって面白い。
それを整理して書き直してみた。クリーム色の部分は既に解体された建物だ。

「(班)」と書いてあるのは実際には「○○班」と職員の名前がついていて、責任者の名前がついたチームの研究室のような部屋なのだと思う。
敷地の南にも(班)の建物があったが、小学校の時はここにプールがあったので、閉校してから建てたものだ。
それから、今は解体されてプレハブになっている東校舎だが、この時点ではまだ存在していた。
2階建てで整理室として使われており、1階も2階も北校舎と連結されていた。
つまり東校舎の解体は閉校直後ではなかったのだ。東校舎だけ解体した理由は何だったのだろう。
北校舎の地下は倉庫として使われていた。
給食調理室だった棟は、発掘品の水洗いや保存処理を行なう場所になった。
もう解体されてしまった体育館は、土器保存庫として使われていた。
南側の体育器具室は図面庫になっていた。
階段下に暗室と書かれていたが、これも多分閉校後に文化財課が設置したものなのだろう。その近くにスタジオもある。

もう閉校後35年経過している建物である。漠然と、すべてが学校時代のものであるように考えてしまうと間違ってしまうな。
2階の中央にある湯沸かし室。流しと湯沸かし器、ガスコンロがあるが、これも閉校後の設置だろうと思う。

2階の他の3教室にはもう何も残っていない。この教室は黒板も撤去されていた。(黒板が残っている教室もあった。)

教室の床には、長年使用した補修の跡が残っている。

2階の廊下から見た階段室。

1階は、1室は立入禁止で、1室は上映会場、1室はカフェだったので内部の撮影はしなかった。
部屋の構造は2階の教室と同じだった。
今回一番印象に残ったのは、階段室の大きさだ。それから閉校後の使われ方についても少し状況が見えて興味深かった。
この校舎は1924年(大正13)に建てられたものだ。南校舎は1901年(明治34)の竣工なので、それよりも古い。そちらも機会があれば見てみたいものである。
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