「五稜郭」に行ってみた

2021-06-21

佐久市訪問記(3)です。
次は「五稜郭」に向かいました。佐久市にある龍岡城です。函館の五稜郭とともに、日本に二つしかないという星形稜堡の洋式城郭です。

この画像は,龍岡城のすぐそばにある「五稜郭であいの館」の展示資料を撮影しました。
龍岡城を建造したのは,三河の国奥殿藩の藩主だった松平乗謨(のりかた)です。(のちに大給恒(おぎゅう ゆずる)と改名します)

文久3年(1863)、藩の領地の多くが信濃にあったので,乗謨は本領を信濃に移転することを願い出て,合わせて新陣屋五稜郭建設の許可も申請しました。翌年(元治元年)建設を開始し,慶応3年(1867)には城郭内に御殿などが「完成」したようです。完成とはいっても、現実的には屋根瓦が張られていない部分も多く、未完成状態であったようです。
乗謨は慶応元年(1865)には陸軍奉行となり、その後若年寄,翌年には老中になっています。築城に関わっている余裕も費用もなかったのでしょう。

正面の大手橋を渡って「城内」に入ります。

橋の上から見た掘の様子。
堀の幅は、大手橋の近辺が一番広く,9.1mありますが、他の部分はやや狭く,平均すると7.3mくらい。ただ、堀は全周が完成してしたわけではなく、五つの稜堡のうち、二つの稜堡を囲む200mくらいが未完成でした。

中はこのような景色になっています。
現在は五稜郭は佐久市立田口小学校の敷地なのです。
夏休みなので静かです。

明治維新後、明治4年(1871)には廃藩とともに、兵部省が全国の城郭取り壊しを布告しました。龍岡城は地所・石垣はそのままで、建物は入札払い下げとなりました。大広間、書院、東通用門、薬医門が引き取られて現在も佐久市内に分散して残存しているそうです。現地には御殿の一部の御台所(上の写真の中央の建物)だけが残されました。堀は、土塁を崩して徐々に埋められ、明治30年頃には桑畑になっていました。(※)

さて、明治6年(1873)の学制発布により,田野口村には尚友学校が近所の蕃松院というお寺に開校しました。この尚友学校が,2年後の1875年に龍岡城址に移転したのです。尚友学校はのちに田口学校と改名されました。現在の田口小学校です。

御台所は長く校舎として使われ,昭和4年に現在の位置に移転されました(昭和35~36年に半解体復元工事)。

現在,団体に限り、事前予約すれば御台所の見学ができるそうです。(2週間前までに佐久市教育委員会の文化振興課文化財事務所に申請。)
また、個人を対象にしたものは年2回ほど公開をしているということです。検索したら昨年は11月に一般公開があったようですが、今年の情報はまだ見つけられません。

堀に沿って歩いてみます。

ちょっと橋の状態が…。

これは渡れません。東の通用門のところの橋です。

東側の堀の角のところ。

最初に渡った大手橋です。

五稜郭であいの館に入ります。そこに展示されていた模型。
ほかにも古い写真や図面などが展示されていました。

なお、藩主だった松平乗謨さんですが、明治2年(1869)年に竜岡藩知事となりますが、藩の財政難のため廃藩を申し出ました。この年大給恒(おぎゅう ゆずる)と改名しています。
その後政府の賞勲事務局で勤めます。明治17年に子爵となり貴族院子爵議員に選出。その後賞勲局総裁となっています。明治40年に伯爵。明治42年に枢密顧問官を勤めます。

しかし、それよりも日本赤十字社の前身「博愛社」の設立に貢献したことで有名です。
西南戦争時の1877年に,大給恒、佐野常民、桜井忠興らが、熊本洋学校に博愛社を設立しました。敵味方の区別なく救護を行なう、赤十字の精神を発現しようと、救護班の派遣を願い出たのです。
博愛社は明治20年(1887)に、日本赤十字社と改称しました。
佐野が「日赤の父」、大給が「日赤の母」と呼ばれているそうです。

————-

話は変わります。

2013年に,佐久市教育委員会から「史跡 龍岡城跡 保存管理計画書」が出されています。龍岡城跡を史跡としてきちんと保存・継承していくための計画です。
その中で,田口小学校は「史跡とは調和しない関連性の低い要素」と明記されています(p64)。
史跡の本質的価値を構成する構造物は「石垣、堀、土塁,稜堡、御台所」といった築城時のものに限られます。これらを守ることが,「文化財を守る」ことのようです。

しかし、今年で築城から151年経つんですが,そのうち143年間は学校だったんですよ、ここ。もし、そういった歴史の蓄積をリセットして,最初からずっと城だけ存在してました…みたいな顔しているような史跡にするとしたら、反対ですね。
「百数十年間,城跡という場所に存在し続けている学校」。そこまで含めて文化財として見ることはできないんですかね。これこそが地域の暮らしに関連する文化だと思うんですよ。
まあ、昭和47年頃に建てられた校舎を「文化財」とは扱えないのは分かりますけど。

実は,臼田地区では現在4校ある小学校を統合することが決定しています(平成27年1月 佐久市教育委員会議案第62号)。他の場所に学校を作るとのことなので,今のところ田口小学校は解体が考えられているようです。
でも、史跡に新しい建物を建てるのは文化庁としてはダメだと言ってるんですよ。今ある御台所は残せるにしても,あとは平らな土地をつくって普通の公園みたいにしちゃって,皆さんうれしいですか? それより校舎を解体せずに活用してどんどん使った方がいいと思うんですけどね。
こじつけだけど、「百数十年間,城址と学校はともにあった。これからも。」とか言って,社会教育的なことに(も)使っていける場にすればいいじゃないですか。

さて、どうなるのでしょう。

【追記】
(2021.06.21)※印の箇所を再修正。
(2021.06.17)※印の段落に追記しました。

文化財

Posted by Sakyo K.