平城宮阯保存主唱者 棚田嘉十郎

2021-03-21


般若寺の入り口のところに「歴史の道」の案内図がありました。帰りはこの道を東大寺まで歩いてみることにしました。


向こうに大仏殿が見えます。手前のガードレールが,歴史の道の一部です。


途中に「空海寺」というお寺がありました。事前知識は何もなかったので,ちょっとのぞいてみました。門には格子の扉があり、閉まっています。鍵はかけてなかったので、開けて入ってもよさそうな雰囲気でしたが、そこまでにしておきました。


門の右側にお墓があるのに気付きました。
「平城宮阯保存主唱者 棚田嘉十郎墓」とあります。

(以下はあとでネットで調べたものです)

棚田嘉十郎(たなだ かじゅうろう)1860~1921。
植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた人物です。
平城宮跡は江戸時代末から研究されていましたが、明治時代,関野貞(せきの ただし/東大教授・建築史学者)の研究で世間に知られるようになったようです。
棚田は奈良見物の人たちから平城宮のことをたびたび聞かれたが答えられなかったので,実際に平城宮の大極殿跡を見に行きました。ところがまったく整備されていないのを見て「これが皇居の跡と言えるのか」と悲しみ、保存運動を始めました。棚田の保存運動の原動力は,尊皇の深い思いからだったようです。
1906年に「平城宮阯保存会」を組織し,私財を投じて政財界の要人らに陳情を重ねました。彼自身の生活は困窮を極めていたようです。
1910年に平城遷都1200年祭が行われ,1913年には「奈良大極殿趾保存会」(会長:徳川頼倫)が設立されました。
その後大極殿跡地の買い取りを計画します。しかし、保存会に土地を寄付するという話で資金を出した宗教団体が,土地を個人所有にしようとしているのが発覚して問題になりました。棚田は、このときのトラブルのため(責任を感じてか)自害してしまいます。
その後、買収地はほとんどが国に献上され,1922年に「平城宮第二次大極殿と朝堂院跡」として史跡に指定されました。なお、1936年に行われた「史跡名勝天然物記念保存協会25周年記念式典」では、棚田嘉十郎は溝辺文四郎とともに「当局相手の抗争を繰り広げた保存事業功労者」として、文部大臣に表彰されています。
現在、平城宮跡・朱雀門の近くに棚田の銅像が建てられています。
(以上のまとめは、wikipedia・奈良文化財研究所・春日野奈良観光 の各サイトを参考にしました。)

ここでこのお墓を見なければ,私はきっとこの後も棚田嘉十郎のことを知らずに過ごしていたことでしょう。

最後に、東大寺の南にある建物の写真を。

明治35年に竣工した、旧奈良県物産陳列所です。この建物の設計者が、上で名前が出てきた関野貞なのです。
建物はその後名称を変えて利用されており、現在は奈良国立博物館の仏教美術資料研究センターとして利用されています。ぜひ中に入ってみたいです。