旧田口小学校の桜
桜の季節、佐久の旧田口小学校(龍岡城跡)を訪問した。
駐車場に車を停め、土塁の石垣の横を歩いていく。龍岡城は星形の土塁の外側に堀があるが、西側と南西側の堀は造られなかったので、石垣の脇を歩くことになる。
龍岡城の西北に通用口(黒門口)があり、石橋が架かっているのでそこを渡る。現在の石橋は1976年に架け替えられたもので、学校に車両を乗り入れる場合ここを利用したとのこと。
石橋の上から見ると、向こう側は堀になって水が張られている。
では城郭の中に入ろう。
ところで龍岡城と呼ばれてはいるが、城ではなくあくまで陣屋として建設されたものだ。田野口藩主の松平乗謨(のりかた)は城を持つ格式を認められていないので陣屋として幕府に建設の許可を得た。
しかし説明をしていく上では城郭・城内などの言葉を使っていく。
少し写真が分かりにくいと思うが、土塁の黒門跡を入って右側に、石碑が建てられている。
これは昭和6年(1931)に建てられた頌徳碑で、田口小学校に勤務していた江澤欣治郎という教師を称えるものだった。明治4年(1871)生まれの江澤は、十五歳で小学校教員となり、いくつかの学校を勤務した後明治24年(1891)から田口小に勤務し、昭和6年(1931)まで41年間同校に勤めて退職をしたという。退職を機に、有志が学校敷地に碑を建立したらしい。
現代では公立学校で40年以上同一校勤務もあり得ないし、個人を称える碑を校地に建てるなんてこともあり得ない。
旧田口小学校の校舎。
とうとう学校名の前に「旧」がついてしまった。
今年の3月末に佐久市臼田地区の4小学校(田口・臼田・青沼・切原)が統合して閉校となったのだ。4月11日、別の場所で新たに発足した新「臼田小学校」の開校式が行なわれた。
御台所と桜。
この桜も、龍岡城が竣工した時にはなかったものである。竣工時の姿に戻すといったって、ほとんどの人は桜を切ることに賛成しないだろう。
歴史を経て変ってきたものを元の姿に戻そうと考えるのではなく、過去から受け継いだものを必要に応じて補修したり更新したりしながら大切に次世代につなげていくという発想でいいのではないかと思う。
全てについて「史跡に関連するかしないか」で判断し、関係ないものを切り捨てるのは歴史の切り捨てでしょう。
桜の花びらが風に舞っている。
閉校となって児童もいないので、今回は校舎の周囲を歩いてみる。
正面玄関には行かず、校舎の西側から。
校舎は北棟と南棟の2棟あり、間は中庭になっている。正面玄関は北棟の北側にある。
ここが北校舎と南校舎の間の中庭。
正面にあるのが南校舎で、渡り廊下で北校舎と連結されている。
南校舎の南面。こちらにも桜がある。
南側の土塁の外。ここには堀はない。
南校舎に沿って、東側に歩いてきた。
このあたりまで来ると、堀に水がある。
堀と、そうでないところの境界はこのようになっている。
南校舎の東側には、トイレと体育館がある。
本校舎と体育館の間を歩いてみた。
体育館の正面を通り北へ歩いて校庭側に出た。写真は体育館の西面。(体育館は校舎と角度がずれているので、北西面と言った方が正確。)
北校舎の北面。左に少しだけ見えるのが体育館。
正面玄関までやってきた。
また東側に引き返し、体育館の東面側を確認。
東通用門の橋。現在の橋は1934年に新設されたもので、何回か補修されている。以前私が見た時も一部破損していた。(2018年)
この後、堀に沿って北側を見たり、大手橋や招魂社を見たのだが、今回の私の関心は田口小学校なので、ここまでとする。
佐久市が令和3年3月付けで出した「史跡龍岡城跡整備基本計画」によると、市の方針は
「史跡として目指す理想像は竣工時の姿に戻すこと」としたうえで、「現況の史跡を構成する構造物を維持しつつ竣工時の龍岡城にできる限り近い状態に戻す。また、それに合せた活用を行なう」とある。
以前も書いたが、私は竣工時の姿を目標にするんじゃなくて、この史跡を今まで使ってきた歴史を大切にするために、学校の存在も含めて整備すべきだと思っている。
実は私は少し前まで佐久市に対してかなり腹を立てていて、それはこの整備計画が完成する前、書類には日付が入っていない「史跡龍岡城跡整備基本計画(素案)」を見ていたからなのだ。
私が腹を立てたのは次のような表記があったからだ。
(現存する城郭内の要素の評価として)
「②本質的な価値を構成する要素以外の要素
a)田口小学校
・史跡とは関連しない要素である。
・体育館やプール、遊具等の関連施設も含め撤去する必要がある。
・令和5年3月での閉校が決まっている。
b)田口招魂社
・史跡とは関連しない要素である。
・史跡との直接の関連はないものの、龍岡城の廃城直後(明治12年(1879))に建立されたものであり、田口地域との関連は深く、歴史は長い。」
御台所を学校として使い始めたのが明治8年(1875)、招魂社設立より前なのに。学校には地域との関連も歴史の長さもないというのか、あっさり切り捨てかよ。教育委員会なのに学校というものをどう考えているのだ、と腹立たしくて仕方なかったのだ。
それが令和3年の基本計画になって少し表記が変った。
「a)田口小学校
・史跡とは直接関連しない要素ではあるが、地域と密接な関わりの歴史をもつ施設である。
・令和5年(2023)三月末で閉校が予定されている。
・史跡本来の姿(竣工時の龍岡城の状態)に戻すためには、体育館やプール、遊具等の関連施設も含めて解体・撤去又は必要に応じて移設する。」
b)田口招魂社
・史跡とは直接関連しない要素ではあるが、その前身は築城時から存在した田野口藩藩主を祀る「三社様」であり、そこに龍岡藩の北越出兵の戦死者が合祀されるなど、龍岡城の歴史を語るうえでは重要な要素で、地域との関わりも深い。」
招魂社の設立の明治12年より、それ以前の藩主を祀る社を持ち出したあたり、なんとしても招魂社の撤去・移設は避けたいという思いが伝わってくるが、まあそれは置いておいて。
小学校について「地域と密接な関わりの歴史を持つ施設」と、やっと書いてくれたのである。最初からそう考えなくてはダメなんだよ、本当は。自治体というのは地域の歴史だけじゃなくて住民を大切にしないと意味がないだろう。
ともかく、素案から少しだけだが私の願う方向に軌道修正されているので、次は「140年以上学校として使われてきた歴史をいかに史跡と両立させるか」というところまで佐久市には頑張っていただきたいのである。
【参考】
「史跡龍岡城整備基本計画」(令和3年3月/佐久市教育委員会)
「史跡龍岡城整備基本計画(素案)」(日付未記入/佐久市教育委員会)
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