松本市歴史の里 見学記(2)
(前回の続きです)
こちらは、旧松本少年刑務所の独居舎房です。昭和28年に松本市内に建てられたものですが、平成2年まで使用された後,現在地に移築されました。建物は少年刑務所技官が設計し,建築技能を持った服役者を近隣の刑務所から集めて工事を行なったとのこと。
独房内の様子
床は板張りですが、昭和50年代になると畳敷きで洗面器のある部屋に改装されたそうです。
「独房体験しよう! 独房に入ってみよう 扉を閉めてみよう」という看板があったので、中にも入れるようです。私は入りませんでしたが。
外に出ると,西側にいくつか石碑が並んでいます。
「市民のつくった博物館」という碑。
「初代理事長 原嘉藤先生の碑」。日本司法博物館(開館当初の名称)の初代理事長で、旧裁判所庁舎の保存に尽力した方だそうです。
どういう方なのか,その場では全然分からなかったのがこの碑。
「御来館記念
エレーナ・カタソノワ レフ・カタソノフ夫妻
『さくら』平成13年(2001)4月18日植樹」
松本に来て植樹をしていらっしゃいますが、どんな方なのか知らなかったのであとで調べました。
エレーナ・カタソノワ氏は、ロシア東洋学研究所の主任研究員とのことです。
第2次大戦後、ソ連が敵国の将兵を労働力として酷使した「シベリア抑留」について研究して、2013年には資料集を出版されたそうです。
「ソ連における日本人抑留者 1945―1956」という資料集で,ロシアの各種公文書館に保管されている日本人関係のロシア語文書を網羅したものだとのこと。
もう少し奥に行くと移築建物ではない「展示・休憩棟」があるのですが、
この中にはシベリア抑留関係の資料も展示されているのです。
建物の外に展示内容の説明がありました。
・川島芳子記念室
・シベリア抑留展示コーナー
・山本茂実展示コーナー
エレーナ・カタソノワ氏は、シベリア抑留の関係で来日したのだと想像します。
さて、展示・休憩棟の向かいにある建物に入ります。
旧昭和興業製糸場です。長野県は明治時代製糸業が盛んだったので、その歴史を伝えるものです。(資料展示の山本茂実氏は「あゝ野麦峠」の著者なので、それも製糸業に関連しています。)
建物は,もともとは下諏訪町にあったもの。
大正14年(1925)に建てられ,経営者が変わりながら平成7年(1995)まで70年間使われてきた建物とのことです。説明板の表記では,建築年のところは修正されて大正14年になっていましたが,それまでは昭和9年の建築であるとされていたようです。(サイトの方では「昭和のはじめ」になっています。)
「動態保存を目的に移築」されたとありますが、ときどき生糸をひく実演も行なわれています。
棟の隣にあるのはボイラー室だと思います。
では、製糸場の中に入ってみます。
館内の説明板によると,この製糸場の仕事内容は次のようになっています。
1)原料繭の買い付け
2)乾燥・保管
3)選繭(せんけん)
4)煮繭(しゃけん)繭を煮て柔らかくする
5)繰糸(そうし)繭から糸を取り出す
6)揚げ返し・再繰 乾燥させながら巻き直す
7)品質検査・装束・出荷
繰糸場の様子
鍋で煮た繭を陶器の釜で保温し,糸をとる作業をします。
ここにある機械は,諏訪式繰糸機といって、長野県岡谷市で開発されたものだそうです。木材と陶器で作ってコストを抑えています。
こちらは揚返場(あげかえしじょう)です。
繰糸場で巻かれた糸は、高速で巻き取られてピンと張っていてまだ湿っている状態です。それを乾かしながらゆるく巻き直す作業です。
このあと、生糸を取り外して検査し,束状にまとめて出荷です。
長野県の製糸場の数の変化がグラフになっていました。
写真では文字が小さくて読めないと思いますが,上から明治26年,大正3〜4年、昭和2〜3年のデータです。一番数が多いのが諏訪郡となっています。諏訪郡の製糸場の数は,明治〜大正には200前後、昭和初期には300ありました。
松本市のデータだけ紺色になっています。(明治26年時点ではまだ松本町だったので、東筑摩郡に含まれています。)
昭和12年に日中戦争が始まり,戦時体制が強まってくると,長野県では生糸に偏った工業政策を見直し,岡谷に県立機械工訓練所,松本・長野・岡谷の工業高校に機械・電気・応用化学科を増設するなどして、地方の工業化を進めます。
昭和13年に国家総動員法が制定され,資材・労働力を軍需産業に投入することが決まり,製糸業は打撃を受け,松本市内の工場は転業や廃業することになったそうです。
戦後は朝鮮戦争以降、製糸業を含む繊維工業も生産が回復していきましたが,昭和38年頃から合成繊維や中国産の製品に押され,国内の繊維産業は打撃を受けました。松本市の繊維産業も衰退していったのです。
出口のところにいらっしゃった。
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