龍岡城の桜

1863年(文久3)、三河国奥殿藩の藩主だった松平乗謨(のりかた)が、藩の飛び地があった信濃国田野口に陣屋を移転し、龍岡城を建設した。その縁で、旧臼田町と愛知県岡崎市が交流を始めたということを、稲荷山公園で知った。

稲荷山公園から龍岡城に向う。昨年は龍岡城の桜は見逃したが、今年は間に合った。
車を停めて堀の近くまで来たら、堀の水面や大手橋前の道路が花びらに覆われていた。

大手橋の近くに来たら、風が吹いて花びらが見事に舞った。

前回訪れたのは昨年の5月だったが、その時は東側と南側の堀の水が抜かれていた。堀の土砂を取り除く工事を行なったのだ。現在はどうなっているだろう。

堀の東北側の角のところに来た。
水をせき止めてあった土砂は取り除かれ、堀は水で満たされていた。水面に花びらが浮かんでいる。

石垣が少し崩れかけていたところには、砂利の袋を積んで補修してあった。
欠けた部分に石を嵌め込むのかと思ったらそうではなくて、石垣の手前に積んである。文化財として、オリジナルの部分と補修部分を区別するということなのかな。

田口小学校の校舎は特に変化はなかったが、いずれは解体する予定である。

校舎の正面玄関。「ありがとう田口小学校」の横断幕もそのままである。
しかし校庭は枯れ草が目立ち、ちょっと荒れている印象だ。もう体育館を地域で使うこともないのかな。

ここは北側にある大手橋。

大手橋の北側には市の観光施設「五稜郭であいの館」があるのだが、現在増築工事を行なっている。龍岡城や松平乗謨、それから田口小学校に関する展示を充実させる計画のようだ。
新聞記事で見ただけだが、展示内容に田口小学校のことも含まれるらしいので少しほっとしている。

その近くに大給恒(おぎゅう ゆずる)の碑が建造されている。交流している岡崎市から2024年3月に寄贈されたものだ。
大給恒というのは松平乗謨の改名後の名前である。
彼は佐野常民とともに日本赤十字社の前身・博愛社の設立に貢献したほか、明治政府の勲章制度の整備も行なったそうだ。

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少し場所を移動した。ここは龍岡城から北北西に300mほど離れたところだ。
鳥居の後ろに石垣が見えるが、ここは龍岡城の桝形で、もともとは龍岡城の北の入口だった場所である。

これは鳥居の西側に回って撮影したもの。
木の説明板は、2005年(平成17)に設置されたものだ。
その左側、「史跡龍岡城址」と彫られた石碑は、側面に1934年(昭和9)に史跡に指定されたことが彫られているが、石碑の建立は1954年(昭和29)だった。

場所については、現地に立てられている地図の写真を載せるのでこれを見ていただきたい。

最後に説明板の内容を書き写して、記事を終わりにする。

「史跡龍岡城址
本城は旧龍岡藩主松平乗謨がその居城として築いたもので、元治元年(1864年)3月着工、慶應3年(1867年)4月竣工した。
明治4年(1871年)龍岡藩の廃藩にともない廃城となり、建物も一部除いて撤去されたが、石垣や堀は築城綴の状態をとどめている。
西洋式城郭の様式をとり入れた五つの角をもつ星形の城郭は、函館の五稜郭と同様であって、城郭史上特異な位置をしめているばかりでなく、幕末における海外文化の移入のあとを示すものとして歴史上価値のある遺跡である。
昭和9年(1934年)5月、国の史跡に指定された。
またこの場所は、龍岡城の北の入口にあたり、敵の侵入を防御し、攻撃的機能も兼ね備えた鉤の手状の桝形として良好な状態で保存されており、貴重な遺構である。
平成17年4月 佐久市教育委員会」

文化財

Posted by Sakyo K.