旧綿内駅舎
長野電鉄屋代線が廃止されてもう13年が経った。
当初の計画では、綿内駅・信濃川田駅・松代駅は駅舎を残して活用する計画だった。
前回までの記事で松代駅と信濃川田駅について書いたので、今回は綿内駅のことを書こう。
駅舎は2020年頃に解体されて、もう残っていない。

バスの待合所には「綿内駅跡」という説明板が設置されている。
説明を書き写す。
「河東線は、大正11年(1922)に屋代−須坂間24.4kmが河東鉄道(株)(現長野電鉄(株))によって開業し、以来90年にわたって千曲川河東地域の産業・文化の発展に大きく貢献してきました。当時の一番の目的は須坂の生糸を移出するためで、屋代駅経由で横浜へと送られ輸出されました。戦後は果樹栽培が盛んとなり、物流も活発でしたが、昭和40年代頃(1965〜)からは自動車の普及により鉄道輸送は減少し、ついに、運行維持が難しくなった屋代線(2002年から改名)は平成24年(2012)4月1日に廃線となり、綿内駅もその歴史の幕を閉じました。」
廃線後は駅舎はバスの待合所として使われていた。
しかし、老朽化や防犯上の理由から2020年に解体されることになった。
2020年の9月末頃にお別れイベントが開催された。
駅があった場所は現在「綿内中央広場」となっている。東屋とベンチはあるが、あとは砂利敷きの広場である。
広場の運営は、地元の「綿内まちづくり実行委員会」が担っている。長野市から借りて運営するという形らしい。

実は解体直前の2020年11月初旬に撮影した写真があるので、今回はその時の写真を掲載する。
これが綿内駅舎。営業中は出入り口の庇の上に「綿内駅」という大きな看板があった。

入り口の扉と窓はアルミサッシになっていた。

待合室の中。作り付けのベンチがある。

待合室の天井。

ホーム側に来た。

駅舎とホーム。駅舎の手前にあるのはトイレ。

線路側から見たホームと駅舎。

駅舎の脇はゴミ置き場になっていた。
地元の人も不快に思っていたようで、私が撮影をしていたら「いいところばっかりじゃなくて、こういうところも撮りなよ」ってある女性からアドバイス(?)をもらった。

サッシに換える前の扉やテレビのアンテナ、自転車のサドルなど、古いゴミから最近のものまで入り交じっている。コンビニ弁当のゴミとかもレジ袋に入って放置されていた。

単に私のことをからかっただけなのかもしれないけど、「普段からきれいに使いもしないくせに、保存を主張する時だけきれい事言うんじゃないよ」という批判もあったんじゃないかなあと私は思っている。
こんな状態で放置されていて、さらに「防犯上の不安」まであったのなら、地域の中には解体して欲しいって思う人もいるよな。
駅舎の形は、信濃川田駅と似ている。

この辺りに駅舎があったのだが、ホームも崩されて、下り坂で広場と繋がっている。右側の砂利部分がもともと線路があった場所だ。

旧綿内駅の少し南側から、旧若穂駅のところまでの約1.5kmは自転車・歩行者道が整備されている。通学路としても使われているようだ。
最後の写真は、若穂駅があったところで撮影した。
若穂駅は解体されてもう存在しない。右側にある屋根とベンチのところに駅舎があったようだ。

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