旧更埴市庁舎(3)
前回の記事を書いた後いくつか資料を確認したので、今回の記事は今までの補足である。
本庁舎の壁面の模様。
以前の記事でこの模様は麦の穂を表現していると書いたが、「森林と稲と麦の穂」をイメージしたのだと「更埴市制二十年誌」に書かれていた。
(1)市庁舎建設までの経過
庁舎建設については、市制施行当初から市民の関心が高く、円満解決が期待されていたという。
1963年10月の協議会で建設の方針を出し、市内9ヶ所で懇談会を行なった。翌1964年に4回の協議会を経て、2月の市議会で場所を決定した。
その後、用地買収や設計者の決定や建設業者入札などを行ない、同年12月に着工した。
市民には市報を通じて広報をしてきた。
「基本設計ができる」(市報 1964年11月)、「地鎮祭を行なう」(同12月)。「建設が始まる」建物の図面を掲載(1965年1月)、基礎工事の様子(同4月)、「工事着々進む」(同6月)。
それ以後も定期的に写真も合せて進行状況を市報に掲載している。
庁舎が完成し、1966年1月18日に市に引き渡された。
市は1月20,21日に市民に公開し見学の場を設けた後、22日・23日に移転して新庁舎での業務が始まった。
なお、本庁舎北側では厚生施設と車庫棟・自転車置き場の工事は引き続き行なわれていた。
(2)厚生施設(別館)
これがその建物。中外出版の雑誌「建築」1968年8.9月号には「更埴市厚生施設」という名前で掲載されているが、後には市役所別館と呼ばれるようになった。
設計は「滝沢・吉田建築事務所(U研究室 分室) 滝沢健児、横林康平(U研)」と書かれている。工期は1966年2月から6月とあった。
掲載されている原図は線が細くて見えにくくなってしまうので、線の太さを調整して書き直した。
これを見ると、現在の建物と異なっている部分がある。後に新館を建設して連結したため、玄関部分が変っているし、屋根の形も違うのだ。
現在の屋根はこのようになっている。後でカバーをかけて屋根を直したようだ。
1976年の航空写真では、設計図のような屋根の形が見える。
東側の玄関部分の壁面には、本庁舎と同様に坂上正克の彫刻が取り付けられていたのだが、後に新館と連結したため、現在は見られない。
(3)松代群発地震
上に書いたように、別館は工事中であったものの本庁舎の方は1966年1月に完成して使用を開始している。しかし落成式が開催されたのは11月になってからだった。
1965年8月、松代町を震源とする「松代群発地震」が始まった。
1965年10月には埴科地区震災対策連絡会議が設置されたが、10月28日には、一日で有感地震が95回発生するということもあった。
10月は震度3が最大だったが、11月には震度4,そして1966年1月23日には震度5を記録した。
更埴市も1965年11月1日に地震対策本部を設置している。
初期の震源は、松代町の皆神山を中心とした半径5kmの範囲だったが、1966年になると震源域が広がって図のような状況になった。
8月28日には更埴市森附近を震源とした地震があり、更埴市では初めて震度5を記録した。
1965年後半から66年までの発生数をグラフにした。1966年4月は地震回数が10万回を超えている。
グラフを見ると、式典が11月に開催されたというのも納得できる。
(4)新館
1977年、健康センター建設が決まり7月23日に着工した。設計は滝沢建築設計事務所に依頼した。
市報こうしょく8月1日号には、「健康センターは市民の健康相談、保健指導を積極的に行なう施設です。鉄筋コンクリート造3階建延面積953平方メートルの建物で…」(…請負業者と費用の説明…)「工期は昭和52年12月21日までとなっております」と、掲載されている。
別館の東側に建てられ、写真のように別館と接続された(この写真は前の記事で使ったもの)。
また、本庁舎とも渡り廊下で接続された。
市報1978年1月1日号で名称を「市役所新館」とすることが発表された。
1階は市民課・国民健康保険業務、2階は保健婦センター、3階は講堂として、1月17日から業務が始まった。
最後の写真は、新館1階の現在の様子である。備品は撤去されたが、「市民係」「年金係」の札がぶら下がっていた。
さらに1989年に本庁舎南側に保健センターが建てられ本庁舎と連結されるのだが、記事の方はここまでとする。
【参考】
「更埴市制二十年誌」(更埴市制二十年史編纂委員会編/更埴市/1979)
「更埴市史 第三巻 近現代編」(更埴市史編纂委員会/更埴市/1991)
「市報こうしょく」(1964~1966、1977~1978)
「建築」(中外出版/1968年8.9月号)
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