下伊那農業高等学校高森分校の閉校
前回、高森町の下市田区が建立した三六災害の復興祈念碑の記事を書いた。
防災のカテゴリーに含めたので災害記念碑だけに絞って書いたのだが、萩山神社の周辺には他にもいくつか石碑がある。
そのうちの一つがこの石碑だ。
「われら働きつつ此処に学びぬ」と書いてある。(この碑は最初に中央の行を読むようだ)
昨年の10月に、旧下市田学校校舎の記事を書いた。
1888年に建てられた下市田学校は、1935年から青年学校の校舎として使われた。
終戦後、学制の切り替えで青年学校は廃止(普通科は1947年3月、本科は1948年3月末)され、戦後の中学校・高等学校へと移行する。
下伊那郡では、郡や各市町村に「新学制実施準備協議会」が設置され検討を進めた。
一方、青年学校の生徒は1947年2月に「下伊那郡青年学校生徒連盟」を結成した。これは各学校の校友会を基礎単位として群下のほぼ全ての青年学校を含んで組織され、結成大会には4000名の生徒が参加したという。生徒連盟は、青年教育の機会均等・郷土建設のための民主主義教育を求めて、行政へ要請行動を続けた。
市田村では、市田村青年学校校友会の上級生が嘆願書を作り村内を回って署名を集めたという。この運動が村の協議会も動かし、1948年5月に下伊那農業高等学校市田分校が開校することになった。
前回の記事で、下伊那農業の分校が一時期は17校もあったことを書いたが、これは各町村で青年教育の機会を確保するための運動が進められた結果だったのだ。
碑の裏側に、分校の略史が記されている。
(漢数字は算用数字に置き換えた)
長野県下伊那農業高等学校高森分校略史
昭和23年5月 長野県下伊那農業高等学校市田村分校として開校
31年4月 生田村分校を統合
33年4月 高森分校と改称
34年11月 新校舎落成
43年11月 創立二十周年記念式挙行
55年3月 中心校へ統合して閉校
この間昼間定時制として独自の校風を築き地元の期待に応えるとともに卒業生七百余名は地域社会発展のため活躍している
歴史を閉じるにあたり同窓生一同相図りこの碑を建立し友情の絆とする
昭和55年3月20日
高森分校統合閉校記念事業実行委員会
1957年に市田村と山吹村が合併して高森町が誕生したので、1958年から高森分校と改称した。
この頃には、授業は午前か午後の半日であとは働くという形になっていたようだ。(夜間授業ではない。)
翌年には新校舎が落成している。
これは1976年の航空写真だが、現在残っている本館と、既に解体された増築校舎が写っている。
しかし、1970年代前半になると全日制高校への進学が増え、定時制高校の生徒数は減少していった。多くの定時制高校が閉校となった。
1974年の高森町長選のときである。
選挙の際に分校の廃止が話題となった。県立高校という形だが、運営費は市町村負担だったため、それが財政圧迫の一因であると問題となったのだ。
1975年1月、町長が学校の廃止について、学校と保護者との懇談会を開催した。なんと、学校がこの懇談会の開催を知らされたのは前日だったというのである。無茶苦茶だな。
学校は存続を希望したが、1977年11月、町は県に分校を中心校に統合するよう要求を出した。翌年、県は1979年の生徒募集を停止するという方向を出した。
学校側は反対をしたが、1979年度末で閉校することが決まり、1980年3月に閉校となった。
この石碑は閉校にあたって建てられたものである。
3月20日、高森町福祉センターで閉校式が開催され、グラウンドでは記念碑の除幕式が行なわれた。
町長は、学校を解体して保育園を新築するつもりだったが、保存運動が起こり、本館は保存された。現在は保育園と旧校舎が並んで建っている。
【参考】
「長野県下伊那農業高等学校定時制閉校記念誌 四十二年の歩み」(閉校記念誌編集委員/1990)
「創立百周年記念誌」(長野県下伊那農業高等学校/2021)
「戦後初期青年学校の研究」(小林平造/日本社会教育学会紀要1982年掲載)
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