福沢桃介記念館
写真は南木曽町にある福沢桃介記念館だ。この建物は斜面に建っているため正面側の床下がかなり
高く、玄関は見上げるような高さである。
その玄関前に案内標識が立てられている。〝記念館に入るには山の歴史館に行ってください〟と。安全を考慮して、観光客がこの階段を歩くことを避けているのかもしれない。
案内に従って隣の建物へ向う。
この写真を見ると床下の高さが分かると思う。別荘を建てる時に地面を完全に整地せずに、そこにあった岩を利用して建てたようだ。
左下に見える薄い緑色の物体は、読書発電所で使用していた発電機の水車だ。1997年まで使われていたものだという。
山の歴史館で一度入館料を払えば、そのまま桃介記念館も見学できる。歴史館の裏手から渡り廊下を通って記念館に行けるのだ。
山の歴史館を見学した私は、その渡り廊下を歩いて記念館に入った。渡り廊下には階段があり上っていくので、記念館の2階に入ったように錯覚してしまったが、建物の床下が高いのでここが1階である。
展示資料で知ったのだが、この建物は1950年(昭和35)4月6日に火災で二階部分が焼失したという。
以後は平屋にして、1985年(昭和60)から記念館として公開を始めた。そして1997年(平成9)天白公園の整備事業にともなって往時の姿に復原したのだった。
だからこれから見学する建物の2階部分は再建されたものということになる。
火災のことを先に書いてしまったが、改めてこの建物の歴史を書いておこう。
福沢桃介は木曽川流域に発電所を造る際、1919年(大正8)にこの別荘を建ててここを拠点にして建設の指揮監督をした。
パートナーであった女優の川上貞奴もともにここに滞在した。別荘は二人の住居というだけでなく、賓客をもてなす社交場でもあった。
発電所の建設が一段落し、1924年(大正13)には桃介と貞奴は東京に戻り、以後は大同電力が社宅として使った。その後読書村に譲渡され、1953年からは高校の教員住宅として使用された。
そして1950年、火災で二階部分が焼失してしまったのだ。
まずは1階部分から見学。右手に浴室があった。
南側のサンルーム。サンルームの奥に見えているのが別荘の玄関だ。
ここが玄関ホールのはずだ。
玄関ホールの隣の部屋。暖炉があるので、居間や食堂として使っていたのだろうか。来客もここでもてなしたのだろうと思う。
展示してあるコートとシルクハットは桃介が着用していたもの。
建物の東端には四畳半の和室があった。
2階に上がった。先に書いたように、2階は火災で焼失後に復原されたものだ。
正式な名称を調べなかったが、ここは東端にある展望室のような部屋。位置は和室の真上にあたる。
2階の一室。読書発電所の工事の写真が展示されている。
隣の部屋にも資料が展示されている。
南側のバルコニー。垂木はあるが屋根を架けてないので、床板も傷みやすいかな。
桃介橋に関する展示もあった。
左端に少しだけ見えている額は、復原前の桃介橋の写真だ。
床板が落ちて、ボロボロになった橋が痛々しかった。復元できて良かった。
見学を終えてから外部を撮影した。
暖炉の煙突の部分。その右側の1階が和室で2階が展望室だ。
最後は北側の斜面に上って建物の裏側を撮影。
私は自分のペースで写真撮影をしたかったので説明は頼まなかったが、山の歴史館と福沢桃介記念館は係の方が説明をしてくれるので、それを聞きながら見学するのも良いと思う。
開館は4月~11月の9:30~16:30。(今年は3月25日から開館した。)
水曜日は休館日。
自動車で来館する場合は、天白公園の駐車場に無料で駐車できる。
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