文化の日の軽井沢 (1)

軽井沢町では毎年文化の日に町有施設の無料開放を行なっている。
現在は型絵染美術館、歴史民俗資料館、旧近衛文麿別荘,追分宿郷土館,堀辰雄文学記念館、町植物園の6つだ。

数日前に歴史民俗資料館と旧近衛文麿別荘は訪れたばかりだが、今回はスタンプラリーも行なうということで、それなら回ってみようと出かけることにした。
スタンプラリーは植物園を除く5館で実施ということなので,申し訳ないけど植物園は訪れないことにした。
上の写真は歴史民俗資料館の案内表示。

歴史民俗資料館から回り始めることにした。紅葉は数日前の方がきれいだったな。

ポール・ジャクレー展は3日前に終わっている。「軽井沢の今昔」は、この日はまだ開催していた。(11/15で終了)

資料館の脇には杉浦翠子の歌碑がある。私は歌碑や句碑にはあまり興味がないので素通りしてしまったが、この方はグラフィックデザイナー杉浦非水(1876-1965)の奥さんだというではないか。知らなかった。あとで写真を見返したら説明板に書いてあった。

奥さんが先に亡くなられて,非水が1961年に中軽井沢の山荘にこの石碑を立てたのだという。後に遺族が町に寄贈してここに保存されているとのこと。

今回私が気になったのはこの写真。1924年(大正13)に建てられた軽井沢サナトリウム。通称マンロー病院とも呼ばれていたらしい。設計はW.M.ヴォーリズだという。
建物はもう存在しない。

ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro)(1863-1942)はスコットランド生まれの医師であり考古学者でもあった。
彼が最初に軽井沢に来たのは1917年(大正6)のことで、貸別荘に手を加えて医院を開業したらしい。1923年(大正12)の関東大震災で横浜の自宅が全焼し軽井沢に移住した。
1924年 (※1),軽井沢避暑団が2年前に開設していたナーシングホームをもとにして軽井沢サナトリウムを開設し、マンローを院長に迎え入れた。7~9月は避暑団が経営してその他の季節はマンローが自分の医院として使ったそうだが,赤字続きだったようだ。軽井沢避暑団は1928年(昭和3)に加藤伝三郎を院長として迎えた。(マンローは名誉院長。)
マンローはその後1932年に北海道に渡り,アイヌの研究と医療活動を行なったという。

この建物は後に別の会社が夏期のみのホテル「旧軽井沢ヴィラ」として使ったが,1980年に経営を止めたらしい。解体時期はよく分からなかった。

さて、資料館を出て次は旧近衛文麿別荘へ向かう。
今回は林の中の小道を歩く。「クマとの遭遇にご注意下さい」の札の横を通った。

前回の記事でも書いた旧雨宮邸の母屋。側面はこんな様子だ。正面とは少し違う印象を受ける。正面から見た時はあまりそう思わなかったが,これを見たらちょっと中にも入ってみたくなった。

旧近衛文麿邸。前回の記事から数日しか経っていないが、再び中に入る。

やっぱり日光と木の影で,正面の写真はうまく撮れない。いつか再撮影をしよう。
(ここは前回書いたので内部の話は省略。)

旧雨宮邸の裏の小道を歩いたら,水面に紅葉が映っていた。

次の目的地は型絵染美術館だ。ここは初めて訪れる。
今回のスタンプラリーがなかったら多分訪れる機会はなかっただろう。
予備知識もなしに入ることになった。

染色家の小林今日子(1918-2011)が、自分で建てた美術館を作品とともに2000年(平成12)に町に寄贈し、開館した美術館だそうだ。開館期間は7月1日~11月5日。
型絵染めは型紙を使って布に絵や模様を染めていく技法だが、和風のものを想像していたらヨーロッパの教会や街並みなどもモチーフになっていて面白かった。
染色工芸家の芹沢銈介(1895-1984)に師事した人だという。

国立国会図書館デジタルコレクションで探したら,1973年の雑誌「新婦人」2月号(文化実業社)で小林今日子のインタビュー記事が掲載されているのを見つけた。
40歳の頃癌になり,手術は成功したが虚脱状態だった時に,デパートで見た芹沢銈介の作品展を見て感銘を受け,芹沢の教室に3年間通ったのだという。
芹沢は小林によく「うまくなるな。面白くなくなるぞ」と言っていたそうだ。

こんなふうに知らなかった世界に出会うことができるので、こういうイベントも良いものだ。

さて、午後も3時半になってしまった。
あと二つ見学したいので次に向かおう。

(つづく)

(※1)確認した範囲ではほとんどの書籍が1924年としているが、「軽井沢町誌」(1988)は1925年にマンローを院長に迎えたと年表に書いている。