文化の日の軽井沢 (2)
軽井沢町追分にやって来た。
ここには堀辰雄文学記念館と追分郷土館がある。まずは文学記念館の方から行くことにした。
入口まで来たら、まあ紅葉・黄葉が見事なこと。午後の傾いた陽を受けて輝いている。
作家の堀辰雄は若い頃から毎年のように軽井沢を訪れており,1944年から追分に定住し,この地で1953年に49歳で亡くなった。
その旧居跡に作られ、1993年に開館したのがこの文学館である。晩年を過ごした住居や書庫,多恵子夫人が長く住んでいた別棟、それに蔵書や資料を保管・展示する本館が建っている。
なんと、展示室の撮影OKの表示がある。
そんなわけで、展示室内で撮影をした。
「風立ちぬ」が掲載された雑誌「改造」1936年12月号、単行本は1937年刊行の新潮社版と1938年刊行の野田書房版が並んでいる。
堀辰雄に関係する軽井沢の地図も掲示されている。(写真はその一部を拡大)
前の記事で書いた軽井沢サナトリウムの場所はここだったのか。
閲覧室から出て、南へ回ると旧堀辰雄邸が見られる。
説明板にはこのように書かれている。
「旧堀辰雄邸 昭和26年7月にこの家を新築し亡くなる昭和28年5月28日まで過ごした。右の四畳半で多くの本に囲まれた病臥生活であった。」
家の前には書庫も建っているが,そこにも説明板がある。
「書庫 この完成を心待ちにして、病床で蔵書の並べ方まで妻に指示していたが,死の10日前に出来上がったこの書庫に,思ったとおり本が並ぶのを遂にみることなく世を去った。」
(実はこのとき他の見学者が書庫の前で熱心に見ていたので,書庫の写真を撮らなかった。そこで書庫だけ以前に撮った写真を使っている。)
【追記】(2023.12.26)
上の文章は2年前の写真から書き起こしたものだが,先日再訪問したところ,違う文面になっていたので改めて掲載する。現在展示されているものは次のような文章だ。
「書庫 数多くの蔵書を収めようと建てた書庫、亡くなる10日前に完成したが,本が納まるのを見ることはなかった。病床で手鏡ごしに見て完成を心待ちにしていた」
(追記終り)
次の場所に向かうため,館を出た。
ところで、出入口の大きな門はどういう由来のものだろう。
門の右手に説明板が立っていた。(矢印のところ)
それによると、この門は追分宿の本陣の裏門だったのだという。
江戸時代に栄えた追分宿は、1878年(明治11)の明治天皇北陸巡幸の際には本陣が行在所として使われたが,信越線が開通した後は宿場としての機能を失ってしまう。
この裏門は明治の末に御代田町塩野(当時は小沼村)にある内堀家に移築され,表門として大切に使われていた。
軽井沢町にとって歴史遺産であるということで、2005年(平成17)に町に寄付されたものだと書いてある。
しかし「軽井沢web」にはもう少し細かいことも書かれていた。
移築するなら本陣の跡地だろうと皆が思っていたら、土地所有者にも事情があり断られたというのだ。中山道の見えるところにすべきだ、いや門をくぐっても何もなかったらさびしい、と意見が割れて建てる場所が決まらない。
そんな中で,中山道沿いにあり、観光客も訪れる施設で町有地だから、ということで堀辰雄文学記念館に決まったらしい。
実は多恵子夫人は建てるのを嫌がっていたのだが断り切れなかったというのだ。
この記事では、本当にこの場所で良いのか再考を求めている。
(以上は,軽井沢web「堀辰雄文学記念館の前になぜ本陣の門が?」2016年9月13日 に基づく)
私は、自宅で門を約百年守り続けてきた内堀家の方を評価したいけど。
この門が建てられたのは天保2年とある。1831年だ。
明治の末頃に移築したというので,1910年(明治43)と仮定しよう。町に戻ったのが2005年。追分にあったのは80年間、内堀家にあったのは95年。この年数を〝歴史〟としてどう見るのかということもあるだろう。
もちろん2005年以降の年数を加えれば追分にある年月の方が長くはなるけど、「この場所にある意味」というのは何なんだろうね。
まあ部外者がどうこう言うのはここまでにして、追分の住民に任せよう。
***
ああ、もうすぐ4:30だ。時間がないので移動しなければ。
最後の一ヶ所,追分宿郷土館へ。
間に合った~。
でも急いでいたので建物の写真を撮れなかった。仕方ないのでここも以前撮影した写真を使った。
スタンプラリーは,このような紙を持って回っていた。それぞれの館でスタンプをついてもらうのだ。これで完了。
この用紙と引き換えに記念品を頂いた。町制施行100周年の記念品のスリムボトルだ。
多分100周年だからということで今年だけスタンプラリーを開催したのだと思う。
改めて見ると,堀辰雄文学記念館だけ似顔絵になってるのも面白い。
記念品と引き換えに用紙は回収するので,館の方が「スタンプラリーの用紙の写真を撮りますか?」と確認してくださった。それでこの写真を残すことができたのだ。
いろいろ新しいことも知れたし,楽しい一日だったな。
…いや、まだここの見学が残っている。
前回来たのはポール・ジャクレー展だったから、館内の様子もその時とは違っている。
展示物を見ながら,そこで、私はひとつの「発見?」をしたのだった。
(つづく)
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