ポール・ジャクレーと「新版画」

もう一ヶ月も前のことだが、軽井沢追分宿資料館(長野県北佐久郡軽井沢町)で開催された「ポール・ジャクレー全木版画展」を見に行った。(ブログを書くのが遅かったので,もう会期は終わっています。10月31日で終了でした。ごめんなさい。)

現在,追分宿の駐車場にいる。画像は駐車場脇にある案内図を撮影したもの。資料館はすぐそこ。

ここが追分宿郷土館。

入り口には,ポール・ジャクレーの展覧会の案内が掲示されている。

掲示やチラシに使われているこの絵は,「馬の鈴草、トンダノ、セレベス島」という1953年に制作された版画だ。

ポール・ジャクレーは1896年にフランスで生まれた。父親は1897年にフランス語の教師となって来日した。2年後に母とポールも来日し,以後日本で暮らした人である。
子どものころから油彩画や日本画を勉強し,義太夫や三味線も学んだという。
1920年(19年説もあり)にフランス大使館での勤務を始めるが,1929年頃までには退職し,画業に専念するようになった。

さて、ジャクレーの話の前に,明治末から大正・昭和初期の日本の版画について見ておく。

当時,日本の版画界には大きく二つの流れがあった。
図は,吉田漱作成の概念図をもとに、銅版画などの要素を削除して木版のみのイメージが分かるよう簡略化したものである。(「明治版画史」岩切信一郎著・吉川弘文館・2009年に掲載されたものを参考にした。)

江戸時代の浮世絵は、明治時代にも引き続き制作されており、例えば明治初期には維新後の風景や風俗を描いた「開化絵」が流行した。小林清親の「光線画」と呼ばれる作品も人気を博した。
また、西南戦争や日清戦争などを題材にした「戦争絵」と呼ばれるものも制作された。ただ、日露戦争になると写真が優勢になり、錦絵の出版点数は減少していった。(図のピンクの流れ)

明治末になると,伝統的な版画が印刷技術が重視されているのに反発して,創作版画運動が起こった。これは版画の芸術的側面を重視し,(最初は厳密ではなかったが)自分で描き,自分で彫り,自分で摺るということを条件とした。(図の黄色の流れ)

これに対して,絵師,彫師、摺師の分業で制作されていた浮世絵版画でも新しい動きがあった。

海外への輸出用に版画を制作していた渡辺正三郎は、1906年に渡辺版画店を設立し,外国人画家や洋画家の下絵を,職人のもつ熟練した彫り・摺りの技術を生かした版画として出版しようと考えた。
国内向けの日本人作家の作品としては,1915年に橋口五葉が下絵を制作した「浴場の女」が「新版画」の第1作とされているようだ。

伊東深水や川瀬巴水,山村耕花などの絵が版画になり,また他の版元も新版画の世界に参入した。ジャクレーもこういった新版画の系譜に位置づけられる。

ジャクレーは1933年、赤坂の自宅に「若礼版画研究所」を設立し,日本人の彫師・摺師との協働による版画刊行を計画した。翌年,第1作「サイパンの娘とヒビスカスの花、マリアナ群島」を刊行している。

1941年に太平洋戦争が始まると,ジャクレーには憲兵の監視がつき,不自由な生活を送ることになった。1944年に軽井沢に疎開し,別荘を借りてそこで生活するようになる。
終戦後は,GHQの関係者が作品を求めてアトリエ前に車を並べたそうだ。
そして軽井沢に購入した土地と住宅を整備し、摺師用の住宅も用意して多くの作品を制作した。

今回の展覧会では,ジャクレーの162点の大判作品すべてが、前期と後期の2期に分けて展示されたそうだ。私は後期しか見られなかったが、作品だけでなく版木も展示されていた。

また、2階の会場では,親交があった川瀬巴水のビデオ「版画に生きる」(1955年)も上映されていた。

川瀬巴水の映像は,亡くなる数年前に制作されたもので,彼の晩年の様子が映されていた。屋外でスケッチしている川瀬巴水の姿はこんな様子だった。

川瀬巴水とジャクレーの活動時期を年表にしてみた。

新版画の制作は、作家たちも高齢となり1960年頃には終わることとなった。渡辺版画店を設立した渡辺正三郎も1962年に亡くなっている。
しかし新版画の作品の展覧会は川瀬巴水や吉田博など、近年よく開催されている。