旧御料局妻籠出張所

南木曽町の桃介橋を見た後に、山の歴史館を見学した。
この建物は、もとは御料局妻籠出張所として建てられたものだ。
二度の移築を経て、現在は博物館として公開されている。

御料局とは、1885年(明治18)に設置された、皇室の領地を管理する部署である。
1889年に木曽の官林が御料林に編入され、同時に御料局木曽支庁妻籠林区署が設置され、木曽南部の御料林の管理を行なった。

設置して半年もしないうちに御料局木曽支庁妻籠出張所という名前になった。
さらに御料局の支庁の編成替えで、1892年(明治25)には名古屋支庁妻籠出張所となる。

この建物が建てられたのは1900年(明治33)年のことだから、建設されたときを基準にすれば「旧御料局名古屋支庁妻籠出張所」と書くのが正確なのだろう。
ただ1903年には再び御料局木曽支庁妻籠出張所と改称されたので、この建物が名古屋支庁の管轄だったのは3年ほどということになる。
当時の資料を見ても支庁名を省略して表記している例が多いので、私もこの記事では「御料局妻籠出張所」と書いている。

妻籠出張所は、妻籠の本陣を解体してその場所に建設したそうだ。(現在の妻籠本陣は江戸時代の図面をもとに復元されたもの。)

その後1908年(明治41)には御料局は帝室林野管理局、1924年(大正13)には帝室林野局と名前を変えたが、妻籠出張所として存続してきた。

建築後30年を経た頃には老朽化が目立ち、また採光も不十分ということで、当時の出張所長から改築の要望が出されている。
そして1933年(昭和8)、妻籠出張所の庁舎は改築された。
古い庁舎は払い下げられて吾妻橋(読書発電所の対岸辺り。現在の国道19号と256号の合流する付近)に移築され、民家として使われた。

1986年(昭和61)、国道交差点の改良で立ち退かざるを得なくなったので、所有者が南木曽町に寄贈し、解体してしばらくの間部材を保管していた。

1990年(平成2)に天白公園整備事業の一環として復元され、現在は山の歴史館という博物館になっている。

館内の撮影が可能だったので、内部の写真も掲載する。

これは、妻籠に建てられた当時の煉瓦の基礎部分。一部を発掘してここに展示しているが、ほとんどは地中にぞのまま保存されているそうだ。

廊下を左に曲がると、左に宿直室、右に小使室がある。

私は予想していなくて意外だったのだが、その奥には留置所があった。

御料林を管理していると、例えば盗伐などを調査する場合も出てくる。当時の記録を見ると、警察と共に妻籠出張所も調査をし、容疑者を捕らえて拘留をしていたそうだ。警察署に拘留する場合も出張所に拘留する場合も両方あったようだ。

「盗伐」というと犯罪だと思ってしまうが、盗伐の中には政府への抗議を込めたものもあったらしい。明治政府が本来は住民のものであるはずの林まで御料林に指定してしまったことへの抗議として、伐採などで抵抗をしたそうだ。
交渉の結果、1905年(明治38)から「御下賜金」という形で郡に金銭が支払われる形になったという。

これは庁舎の裏側。右側の格子をはめてある窓が留置所だ。

山の歴史館の裏側には渡り廊下が設けられていて、福沢桃介記念館と繋がっている。見学者は山の記念館からしか桃介記念館に入れないようになっている。(記念館についてはまた別の機会に。)

その渡り廊下の前には、森林鉄道の機関車が展示されている。

南木曽町の国有林で運転されていたものだそうだ。森林鉄道は主路線が3つ、支線が4つあり、総延長69.7kmあった。1927年(昭和2)から1967年(昭和42)まで運行されていた。

この写真は玄関の横に建っている「御下賜金記念の碑」だ。

先ほど書いた御下賜金が決まったことを記念してこのような碑を立てた。御下賜金は1905年から1947年まで続いた。
碑の表には「御下賜金紀念日毎年七月二十五日」と書かれている。

石碑の場所が分かりやすいよう、玄関の写真も掲載しておく。

山の歴史館・福沢桃介記念館の入館料は2館セットで500円だ。
ただし12月〜3月は休館である。(春夏秋は水曜日が休館日。)

【参考】
「木曽御料林事件交渉録:史料」(島崎広助著・青木恵一郎編/新生社/1968)