旧松代駅舎

先日、長野市が旧松代駅舎の解体を決めたという報道があった。(信濃毎日新聞、4月26日)
2012年に長野電鉄屋代線が廃止されてから、建物や敷地は自治体(長野市・須坂市・千曲市)に無償譲渡された。
松代駅は長野市の所有となり、バスやタクシーの待合所及び観光情報拠点として使われてきた。

2021年に地元の検討委員会が駅舎の解体撤去に賛成するという結論を出し、今回長野市が解体を決定したという流れだ。解体は今年度中に行なう方針だそうだ。

軒下にはタクシー乗り場の看板が掛かっている。
左の柱のところにある立て看板は、松代観光情報コーナーの看板だったが、2025年3月31日までの開設だと書かれていた。
入り口の横には「地震が発生したら外へ避難」と書かれた貼り紙がある。耐震対策がなされていないことも、地元が解体に賛成した理由の一つだ。

これは待合室の中。壁には松代の観光案内が掲示されている。

廃止された屋代線について、歴史を見ておこう。
近年は屋代線と呼ばれていたが、もともとは河東鉄道株式会社が敷設した路線だ。
1922年(大正11)6月、川東鉄道株式会社により屋代-須坂間の鉄道が開通した。松代駅はその路線の駅の一つである。

1923年3月、須坂-信州中野間も開業した。更に、1925年には木島駅(飯山市木島)まで延伸し、屋代-木島間の路線が全通した。

1926年(大正15)に河東鉄道が長野電気鉄道を合併し、長野電鉄に社名変更した。
以後、路線名を長野電鉄河東線として運行されていた。

しかし車社会となってからは経営が悪化していき、廃線が検討されるようになった。
まず、2002年(平成14)4月1日に須坂-木島間が廃止された。残った須坂-屋代間は屋代線という名称に変更された。

そして2012年(平成24)4月1日、屋代線も廃止された。

冒頭に書いたように、長野電鉄は敷地を地元自治体に無償譲渡するという申し出をし、廃線後は自治体の所有となった。

廃線後の活用として、自転車歩行者専用道の整備が計画されたが、部分的な完成に留まっている。
(2023年のデータだが、屋代線跡地の整備状況は、須坂市が3.9km中2.8km、長野市が16.3km中6.5km、千曲市が4.2km中0.5kmである。)

これは駅のホーム側を少し離れた位置から撮影した。
松代駅では、線路を撤去した跡地を駐車場として利用している。ゴールデンウィーク中だが、車の数は少なかった。

ホームの風景。

再び待合室に入って、説明パネルを見る。
このパネルは、2019年に駅舎保存を考えるイベントがあり、その時に既に掲示されていたものだ。
(イベントに合わせて作成したのか、それ以前に作ったのかは分からないが。)

パネルの中に、開業当時(1922年)の松代駅の写真が載っていたので、ここに転載する。
今の姿よりも白壁が目立つ駅舎だったのだ。
説明によると、屋根の鉄板も、大屋根と一階の屋根、窓の庇部分でそれぞれ葺き方を変えてあるそうだ。この写真では分からないけれど。

駅舎の前には、童謡「汽車ポッポ」の歌碑が建てられていた。作曲者の草川信が松代出身ということで建てられたらしい。

今知ったのだが、この歌はもともと「兵隊さんの汽車」として1937年に発表されたものだったそうだ。出征兵士を見送る歌詞だったのだが、終戦後に時代に合わせて歌詞を変えたのだという。
(初めて知ったと思ったが、歌詞を検索してみたらどこかで聞いたことがある気がするなあ。)

駅舎の側面。私は駅の利用者ではなく車で前を通ったときに駅舎を見るだけだったので、松代駅というと道路から見えるこの場所が思い浮かぶ。
あとどれくらいこの風景が残るのだろう。

長野市は解体は決めたものの、跡地の利用についてはまだ未定のようだ。松代駅舎の駐車場は松代城跡の隣なので、松代城跡周辺の整備事業として実施されるのだろう。