旧格致学校跡地
この写真は、格致学校が建てられた当時から玄関に掲げられていた、学校名の額だ。
何も考えずにシャッターを押してしまったので、反射で見にくいのをお許しいただきたい。
「格致」の名は、中国の古典『大学』の中にある「格物到知」から引用された。「物事の道理をきわめて、自分の知識を完成する」という意味だそうだ。
揮毫したのは巖谷修。書家としては「巖谷一六」の号を名乗り「明治の三筆」の一人と言われた。作家・児童文学者の巌谷小波は、巖谷修の息子である。
今回は、格致学校が元々建てられていた場所が現在どうなっているか、確認をしに行く予定だ。
旧格致学校が閉校となったのは1962年3月。(閉校時の名前は坂城中学校中之条部校)
使われないまま校舎は傷んでいったが、保存運動もあって1971年には坂城町有形文化財に指定、1976年には長野県宝に指定された。
1982年から移築復元工事が行なわれ、1983年3月に完成した。
その後、1983年7月に格致学校保存会が学校の跡地に記念碑を建立したという。
今回はそれを探しに行く。
記念碑の写真は、旧格致学校の移築復元工事報告書に掲載されているので、どのような形かもう分かっている。あとは現地を確認するだけだ。
この地図は以前の記事で使ったものだが、再掲載する。
まずは赤い丸を付けた位置の周辺の航空写真を見ていこう。
1975年の航空写真で黄色の矢印で示した建物が、旧格致学校の本校舎だ。この時はもう閉校となってから十数年経過している。保存の方向が決まって町の文化財に指定され、破損防止のためにフェンスが造られ、壁の保護のために鉄板の波板を張っていた頃である。
校舎の北側にある二棟のやや大きい建物は集合住宅だ。
移築工事は1983年3月に完了したので、1986年の写真では校舎の跡地は空き地になっているようだ。上に書いたように記念碑が建てられたのは1983年だから、おそらく旧校舎があった周辺に石碑が建てられていたはずだ。
ところが最近の航空写真を見ると様子が変わっている。
校舎跡地に、東西に道路が開通しているのだ。
この道路は上信越自動車道の坂城インターと国道18号線を結ぶ県道として1993年に開通した(県道91号坂城インター線)。
2022年時点では国道18号までの開通だったが、現在はもう少し西まで開通している。
記念碑がどこに建てられたのか正確には分からないが、おそらく旧校舎のあった場所だろう。航空写真を見る限り、そこは道路になってしまっている。
さて、記念碑は残っているのだろうか…。
目的地にたどり着いた。
今私は県道91号線の歩道に、西を向いて立っている。
歩道橋の奥、車が停止しているところが国道18号線との交差点だ。
やはり、校舎の跡地は道路になってしまったのか?
道路を横断して南側の歩道に来た。
左側に木が茂っており、何かありそうだ。
石碑発見。二つあるみたいだ。
壇上に登って石碑を確認する。
左側の石碑には、「西澤圭君之碑」とある。1958年に建てられたものだ。
石碑の裏を流し読みしたら、中之条村の出身で、もとは信濃毎日新聞社の記者だった人らしい。
上田地域の図書館サイトで検索したら、「信濃二千六百年史」(今井登志喜編/信濃毎日新聞社/1941年2月発行)の著者として名前が出てきた。編纂委員長は当時東京帝国大学の文学部長だった今井登志喜だ。
書籍は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができるので少し目を通したが、まあ「皇紀2600年」を記念して出版しているくらいなので、戦時体制に添った歴史書(?)だった。
最後のページでは「大政翼賛会は即ち新日本建設の為に打ち据えられた礎石であり、翼賛運動はその礎石の上に新たなる生命を築き上ぐる推進的原動力である」などと締めくくっている。
こういうことを書いていたためか、戦後の公職追放令によって彼は信濃毎日新聞を退社したらしい。その後信濃毎日新聞社が「信濃史料」の刊行事業を始めた際に、西澤もそこに参加した。
西澤は1956年に死去したのだが、第12巻が1958年に刊行された際に、信濃史料刊行会がこの石碑を建てたようだ。
話がだいぶ逸れてしまった。
右側の石碑が、格致学校跡の記念碑だ。
下が木に隠れているが、工事報告書に掲載されていた石碑と同じだ。
多分、道路工事によって場所を少し移動したのではないかと想像する。
裏面に石碑の由来が書かれているので引用しよう。
(漢数字を算用数字に置き換え、句読点を補った。)
「格致学校誌
格致学校の草創はわが国教育の黎明期明治6年9月に遡る。初め西念寺の一部を教場とし後、一行く寺に移る。明治10年8月中之条横尾両村民相謀り同寺跡に新校舎建設に着手し翌11年9月明治天皇北国巡幸を機に二階建白亜碧窓の洋風新校舎完成し近隣、その異彩を放った。その後星霜移り80有5年の永きに亘り幾多の業績を残し来ったがついに昭和37年その使命を閉じるに到った。昭和51年3月同校舎は長野県宝に指定され同年有志により格致学校保存会が結成された。昭和58年3月坂城町による開畝地籍への移築復元工事完了し、保存会は浄財を募って故地の頌徳碑の移転樹木の移植および外構の美化工事を行なった。
茲に記念碑を建立してこの誌を残す。
昭和58年7月
格致学校保存会」
上にある「頌徳碑の移転」というのはおそらく、現在旧格致学校の横に建っている「塚田善作翁之碑」のことを言っているのだろう。
歩道橋の上から、旧格致学校の跡地を眺める。集合住宅は校庭だったところに建てられたので、その右側に校舎があったのだろう。木の手前あたりだろうか。
歩道橋から記念碑のあるあたりを撮影してみたが、知らずに通ったら石碑があることに気付かないだろう。
そして、学校の痕跡を示すものはこの石碑の他は何もないようだ。
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