旧都城市公会堂 〜須田利信〜

ポップアップカード製作のための下調べです。
宮崎県都城市の建築を調べています。

都城市の建築といえば、戦後の建築ですが都城市民会館(1966年築、菊竹清訓設計)が、有名のようです。

写真はGoogle のストリートビューから拝借しました。
2007年に市が解体の方針を発表し,その後南九州学園が無償貸与を受けるという形で存続が決まったとのこと。

といった記事を読んでいく中で,「市民会館ができる前に、都城市公会堂があった」という記述を見つけたのです。この市民会館の前なら, 当然戦前の建築でしょう。

ということで、調べ始めたのです。
(この写真を掲載しておきながら,違う建物の話なんです、済みません。)

ところがなかなか見つかりません。最初に見た写真は、市民会館が竣工したあとに撮影されたもので,公会堂は側面が写っているものです。どうも「須田記念館」とも呼ばれていたらしいのですが,由来が分かりません。

記事を書く方は市民会館の保存について関心がある方ばかりなので,その前の、既に存在しない公会堂についてはほとんど記述をしてくれないのです。

画像検索で見つけたのは,ヤフオクに出されていた戦前の絵葉書でした。これでやっと正面の形が分かりました。

出典を明らかにして引用できる写真は,国立国会図書館の資料で見つけました。
昭和10年に都城では陸軍特別大演習が行われました。その記録として,「昭和十年陸軍特別大演習並地方行幸都城市記録」という書籍が昭和12年に刊行されています。
その中に,次の写真がありました。


「都城市公會堂(閑院宮殿下御招宴に用ひさせらる)」
とあります。

ところが、いつの建築なのか,どこにも書いてありません。

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しばらくそのままになっていたのですが、昨日から再び調べ始めたところ,地元に「都城市総合社会福祉センター由来碑」があるという記事を見つけました。(都城市点字図書館のfacebookです)
それによると、工学博士の須田利信という方が,昭和2年に自分の誕生地である敷地と5万円を市に寄贈,市は公会堂を建設し,後に須田記念館と呼ばれるようになった。ということです。

やっと須田さんのフルネームが分かりました。
須田利信(1856-1925)。工部省や農商務省を経て,日本郵船に入り,最終的には日本郵船の副社長を務めた方だとか。(デジタル版日本人名大辞典Plusより)

大正14年に亡くなっているのでおそらく、寄付を遺言し遺族の方が市に寄付をなさったのでしょう。

建築は昭和2年と分かりましたが,解体年度が不明です。
今の市民会館が建てられたあとに解体された…という記事はありますが、いつなのでしょう。

と、探していたら,「都城市社会福祉協議会広報誌『ごー!ごー!!ちいき』」の第48号(平成26年6月15日発行)に、写真が載っていました。
都城市総合社会福祉センターが須田記念館跡地に建てられたということで,その歴史を振り返る特集です。PDFで公開されていますが,該当部分だけ画像にしました。

1983年に撮影された,須田記念館の写真があります。福祉センターは1984年4月の建設とあったので、解体は1983年でよいのだと思います。
やっと、建築年と解体年が分かりました。

旧都城市公会堂
昭和2年建築,昭和58年解体。

ところが須田利信氏について書かれた文は、あまりネット上に見られません。
戦前の書籍に書かれていた須田利信氏についての文を参考にまとめます。
(参考 「日本ダイレクトリー : 御大典紀念」清田伊平 編 甲寅通信社編集部 大正4年
    「財界の名士とはこんなもの?. 第1巻」湯本城川 著 事業と人物社 大正13年)

宮崎県出身。明治6年東京に出て英語の勉強をし,その後帝国大学工学部へ進学した。明治16年卒業、工学士。始めは川崎工作部で技師を務めたが,明治16年逓信省に入所し管船局で働く。
明治20年、日本郵船がイギリスに船舶を注文することになったのだが、そのときに日本郵船社員となりイギリスに渡る。造船の研究を5年間行った。帰国してからは横浜支店長となり、退社時には副社長となっている。明治32年には工学博士となる。造船についての知識は素晴らしいものだったという。

学者肌の人だったらしく,日本郵船時代の部下には「出勤から退社までほとんど口をきかないこともあった。たまにしゃべっても糞真面目なことしか言わないので、恐れをなした者もいる」と評した人がいたらしいです。しかし実は人情に厚い方だったようで,師弟を愛し,学生たちの面倒を良く見ていたそうです。

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【追記】

都城市議会の議事録の中に,公会堂の由来について述べている発言がありました。(平成19年9月19日)
それによると、
(1) 都城市公会堂の完成は昭和2年11月3日。
(2) 昭和41年4月1日に,都城市民会館開館。
(3) 昭和42年9月16日、旧公会堂が「須田記念会館」として再開館。
(4) 昭和54年6月、須田記念会館の保存の請願。(逆に、この場所に新築建物を造りたいという要望も出ている。)
(5) 昭和57年,福祉センター事業の計画と、須田記念会館の廃止の決議。

という経過だったそうです。
須田記念(会)館と名付けられたのは,市民会館ができた後だったのです。